『キリストの復活(事実、キリストは、死人の中からよみがえった)』というメリル C.テニーが今から80年前、1944年に書いた本があります。そこでは、復活の事実、復活の予測、復活の信仰、復活の自由、復活の効力、復活の熱情、復活と不屈の精神、復活の最終目的と題して八つのことが連想的に語られています。その本の「はじめに」で著者は次のように書いていました。
例年のイースターの説教や、葬式の際に、軽く触れるだけで済まされるような、付随的な位置に甘んじさせられているのは、意外なことであり、残念なことでもあります。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(新約聖書 第一コリント15章17節)。なぜ人は、復活を、たゆまず熱心に説いたり教えたりしないのでしょうか。この本は、読者のかたがたに、この真理の無尽蔵な鉱脈を更に探索していただくための、呼び水を提供しようとするものです。
とありました。その言葉に励まされて、私もその鉱脈の探索の旅に出かけました。以下は、その本で著者が「復活の自由」と題して、これから述べようとしている文章のほんの出だしのものです。お読みくだされば幸いです。イースターおめでとうございます!
イエス・キリストの死からの復活は、物理的現象として見るかぎり、いかにも目をそばだたせるものがあるが、実は、神の力が人間の必要に答えて適用されるとき、どのような結果が期待されるのかを、例証しているにすぎない。
弱さと虚無感と腐敗を伴う肉体の死は、霊的な死の必然的な結果また実相を教えているものである。このことはしばしば聖書に述べられている。「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)。「悪者の悪はその者に帰する」(エゼキエル18:20)。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)。これらの聖句、また他の多くの聖句は、肉体の死が実は、人が罪によって神から離れて行くときに、結果的に伴う霊的死という、より包括的帰結の一部分にしかすぎない、という事実を明示また例示している。
死とは、奴隷的な立場を意味するものである。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8:34)。私たちの犯す罪は、以前の罪にまして、強く、私たちを、奴隷的束縛の中にとりこにしてしまう。一つのうそを言えば、それを隠すために、またうそを言わなければならない。何か一つの欲情をいだけば、その犠牲者が望みを持ちえなくなるほどその習慣に縛られてしまうまで、それはより大きな満足を求めてやまない。こうした一つの悪は、雲のような恐れと葛藤とを生み出すのである。罪を犯す人は、こうして、自分の自由が幻想にしかすぎないということに気づかせられる。彼は法律にそむくことはしていないかもしれない。しかし、良心の呵責を免れることはできない。そして、彼の恐怖と習慣とは、彼を悩まし、その心の平和を奪うのである。
イエスの復活が死に対する勝利を描写しているように、キリストの復活のいのちは、信者に、罪に対する勝利をもたらす。ローマ人への手紙八章で、パウロは、復活の原理がキリスト者生活の基礎となるべきものであるということを、類のない明晰さをもって説明している。七章で、律法の義が内的な分裂や心のひそかな欲情に対抗しうるものでないということを示してから、彼は復活の力がもたらす新しい自由を描いてみせる。彼はこの自由を、三つの面から論じている。
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