2024年3月21日木曜日

「シャープペンシル」と私

春嵐 勢い増して ベニカナメ
 突き上げる振動。地震はやはり怖い。いつ何時災害はやってくるかわからない。風強く、空に雲はあるものの、快晴に近く、地上で私たちが慌てているのが嘘のよう。大した地震にはならず、ホッと胸を撫で下ろす。 

 久しぶりに投稿しようとした矢先、冒頭の出来事に直面した。『出エジプト』についての酒枝さんのご著書をやっと読み終えようとしている。自分がいかに物知らずであるかを改めて思い知らされている。同時に、いかに自分が「偏見」の持ち主であるかも。いずれ、何らかの形でその顛末を報告したい。私にとって冒頭の「地震」に劣らず、心の地殻変動を呼び起こした読書経験となっている。

 昨日はシャープペンシルの芯替えに一苦労した。今まで使っていたシャープペンシルの中で一番自分に気に入っている。と言っても、天国に凱旋された方(※1)の遺品である。かれこれ、10年近く使い込んでいる。私がそれまで買い求めて使用していたシャープペンシルは太身で胸ポケットに差し込むには憚(はばか)れる代物であった。ところが、これは細身でかつ堅牢でデザイン的にも洒落ている。ダンディーな方であっただけに、そのことを余計に感じる。

 その芯が詰まって、ニッチもサッチも行かなくなった。ああ、これでこのシャープペンシルともお別れかと思うと辛かった。私にとって、「万年筆(※2)」と「シャープペンシル」と「iphone」は三種の神器である。どれ一つなくっても、不機嫌になる。だから、その一つでも見当たらないと、大騒ぎして探し抜く。ところが今回ばかりは機能不全である。

 でもどうしてもあきらめきれない。矯(た)めつ眇(すが)めつ、ああでもないか、こうでもないかと挑戦し続けた。その挙げ句、芯は無事替えることができた(※3)。予備の「芯」を見ながら、こんな素晴らしいものを作り上げた最初の人は上手に考えられたなと思わずにはいられなかった。今流行りの「AI」もそのような叡智の現れなのだろうか。しかし、私には今ひとつ乗れない自分がいる。これはまた私の「偏見」がなせるわざか。「出エジプト」は私にとって中々の課題だ。

 午後、パソコンで、ある作品を仕上げていた。ところが、文章と画像を思うように取り込めなかった。こちらの方もシャープペンシルと同様、苦心惨憺挑戦したが、どうしても上手くいかなかった。結局、LINEで息子に相談した。適切なアドバイスを得た。それでもダメだった。そのうちその様子を知った息子からZOOMによる懇切丁寧な指導を受けることができた。知ってみると、意外に簡単であった。かと言って、次回果たしてその通りできるかと言うと自信がないが、こちらの方は「地震」と違い、自信を持ちたいものだ。

※1 この方は菅野鉱一さんと言われ、山形の高校の数学の先生であった。奥様はその教え子であった。その奥様が私どもの家庭集会に出席され、それからしばらくしてご主人である鉱一さんは召された。奥様は後にその記念にと、頭の先から足のつま先に至るまでの遺品を私に下さった。私はシャープペンシルだけでなく様々な遺品の恩恵に今もなお浴している。以下はこのご夫妻が如何に主との出会いを喜ばれたかの記録の一つである。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/01/blog-post_22.html

※2 万年筆は何度もなくしている。それは一回にとどまらない。以下のブログ記事は先代の万年筆にちなんだものである。その名品を結局なくしたので、現在は、娘がかつて家内の誕生記念にプレゼントした万年筆を使わせてもらっていたが、いつの間にか、書き心地が良く、手放せず、我が分身になっている。考えてみると、我が三種の神器はいずれも贈り物として譲り受けたものばかりだ!

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/04/blog-post_24.html

※3 シャープペンシルは私にとって、一番身近な相棒だ。万年筆だと簡単に消せない。シャープペンシルは消そうと思えば、消しゴムですぐ消せるし、二本線で消しても万年筆に比べて手軽な感じがする。一方、パソコンのキーボードは何となく余所余所しく、乙に澄ましている感じがする。シャープペンシルは自分の個室にいる気分になる。キーボードによるタッチはそれに比べると、一挙に応接間で客人をお相手しているようで、下手すると生き生きとした「いのち」を失くす時がある。それが自分にとっては最も嫌なところである。文章を生業(なりわい)としている小説家などが、どのような表現手段を駆使しているのか、興味がある。

主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代、四代に。(旧約聖書 出エジプト記34:6〜7)

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