2024年3月28日木曜日

「裏切り」の切実さ

神罰の 通り過ぐ日を 銘記する※
 今日はまた一転して寒くなった。こんな日はどうして過ごせばいいのだろうか。取り敢えず、図書館で借りている本の帯出期限がすでに三日も経過しているので返しに行った。その図書館へ行く途中に日本基督教団の教会の前を通ったら、看板が立て掛けてあり、ドキッとする標題がこれまた筆字で書かれていた。表題は『弟子の裏切り』とあり、「最後の晩餐記念礼拝本日午後7:30より」とも、その右脇に書かれていた。どのようなことが語られるのであろうか。

 12弟子の一人ユダがイエス様を裏切ったことは恐らくすべての人が知らされている事実であろう。信頼している者に裏切られるということは穏やかなことではない。さて、今回、大谷翔平氏と水原一平氏との間の信頼関係が崩れる事柄が明らかになった。悲しくも痛ましい事件だと思う。

 私自身、たまたま韓国の初戦後か初戦を前にした大谷氏へのアメリカ記者のインタビューだったか忘れたが、それを見ていて、瞬間的に、「なぜ、水原氏は、インタビューに積極的に関わっていないのか」が気になっていた。まさかこんなことがあったのかとは思いもよらなかった。真相を明らかにするのは、それぞれの利害が錯綜し難しいとは思うが、昨日一昨日と『十戒』を見ていて、最後の方のシーンで第八戒の「盗むなかれ」に続いて、それを追っかけるようにして第九戒の「偽証するなかれ」が神の指で岩に描かれるシーンを見ながら、水原氏は明らかに第八戒を無視している。さればと言って、大谷氏は第九戒を犯していないと言い切れるのだろうかと思いながら見ていた。

 そのような時、東京新聞の昨日(3/27)「本音のコラム」欄で斎藤美奈子氏が『翔平と一平』と題して、次のように書いていた。最初と最後の部分の引用だけでは斎藤さんの真意を伝えるには不十分だと気が引けるが、以下抜粋して写させていただく。

スーパースターは一点の曇りもなく清廉潔白であってほしい。多くの人はそう願う。だが現実はそう単純ではない。・・・・疑惑を払拭した大谷は(社会人としての管理責任の甘さはダメージとして残るにしても)これでプレーに専念できるだろう。一方「嘘つき」のレッテルを貼られた水原氏に当面弁明の機会は与えられず、再起への道も険しいように思われる。大谷にも賭博の胴元とされるボイヤー氏にも優秀な弁護士がついている。ひとりで放り出された水原氏にこそ弁護人が必要だと思うのは理不尽だろうか。

 私は理不尽であろうとは決して思わない。現代人の誰もが寄ってたかって産み出し高めあげてきたヒーローに不利になることには手をつけないとしたら、それはそれで大問題だと思う。斎藤美奈子氏の指摘に両手をあげて賛成したい。

※言うまでもなく、この写真は映画『十戒』のワンシーンで、左側の貴婦人が「パロの娘(モーセの育ての親)」で右側にモーセが登場している。皆一様に深刻な面持ちがうかがえる。それもそのはず、外には神の裁きである死が家々を襲って叫び声が聞こえてくるからである。不安にかられて、青いスカーフを被った婦人がモーセに「通り過ぎるの?」と言葉を発しているが、その家のかもいや門にはいけにえの血が塗られているので、安全だと言っているのだろうか。これはイスラエル人がエジプトを脱出する際に主から命ぜられた「過越」の晩餐の一場面であった。今から4000年前のエジプトでの出来事である。それから2000年してイエス様が過越の小羊としてイスラエル・エルサレムに来られた。受難週の木曜日は聖木曜日とも言い、十字架の死を翌日に控えた主イエス様がユダをふくむ十二弟子と共に最後の晩餐を持たれた日である。

あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。(旧約聖書 出エジプト記12章13節)

みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言い出した。イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(新約聖書 マルコの福音書14章18〜21節)

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