2024年3月29日金曜日

さあ、この人です。

エッケホモ レンブラントの 刻みし画

 今日は午前は雨、その上、風もきつかった。歩いて五、六分の歯医者さんに行くのさえ、思いやられた。しかし、午後になると、空の一角に青空があらわれ、時間を追うごとに日差しがもどり、明るく暖かく、やっと春らしくなった。

 またしても東京新聞で恐縮だが、夕刊の大波小波欄に、ずっとこのところ続いている大谷フィーバーに対する疑問が直裁に述べられていた。その題名も「大谷、大谷、大谷?」であったが、要するに猫も杓子も浮かれていて、肝心の政治経済において、現在の日本が危険な方向に向かっていることに、無感覚では困るという慨嘆の文章であった。そして「なたね梅雨の晴れ間」とのペンネームがあった。読んでいて一々同意見なので嬉しかった。それだけでなく、今の天候は「なたね梅雨の晴れ間」なのだと合点することができた。

 さて、そんな一日であったが、今日は聖金曜日である。イエス・キリストが十字架にかけられた日である。そのことを考えようと、レンブラントの「エッチング・素描」集と友人の絵を眺めながら、以下の文章を味わった。(左の友人の絵にちなんで
  雨嵐 辛夷(こぶし)の花は 耐えたるや 

『受難の七日間』(A.フィビガー著青山一浪訳)の「見よ、この人だ」の冒頭部分を転写してみる。

兵士たちがしばらくイエスをなぐさみものにしていると、総督がはいってきました。彼は兵士たちがもうイエスのむち打ちを終わったに相違ないと思いました。しかし彼は、かれらがどんなにイエスにふざけた王衣を着させたか、また、そういうすごい虐待の結果、イエスがどんなに哀れな様子をしておられるか、を見ると、急に彼の心中を、こんな考えがひらめきましたーーもしも私が、今のような様子の彼を連れて出て、みじめなままの彼を見せたら、どうだろうか。たぶん人々は、私の兵隊が彼を虐待したやり方に怒るだろう。彼はなんと言ってもユダヤ人なのだから。そして、たぶん、かれらもふびんに感じて、彼の釈放を要求することだろう。

ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです」(彼がこのことを言明したのは、これで四度目でした)。それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。(新約聖書 ヨハネの福音書19章4〜5節)

それで、権力のある総督と、哀れな犯罪人は、並んで、進み出ました。ユダヤ人たちがイエスを見た時、群集中に、言わばうめきが拡がりましたーー全く彼はひどい目にあったものです。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような身ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(旧約聖書 イザヤ書53章2〜3節)その時かれらは、イエスの優しい善い言葉や、汚れのない生活や、彼がもたらされた愛の貢献を、考えたに相違ありません。ピラトはこれに気が付き、このあわれな人の手をつかんで、彼の席の前に引き出して言いました。Ecce homo!(さあ、この人です)。たぶん彼はそれを自国語のラテン語で言いましたーーみずからイエスの苦難と、その場の重大さに捕えられて。

さあ、この人です。

神聖な清らかな額にいばらの冠をかぶり、紫の衣を肩にかけ、手にまねごとの葦を持って、ピラトのそばに立っておられるイエスを、ごらんなさい。全世界の罪を負っておられるイエス、屠殺所に引かれる小羊を、ごらんなさい。見よ、神の小羊。

「さあ、この人です。」この言葉はパラダイスの園の中でも聞かれました。アダムが土で造られて、神の霊によって命を与えられ、栄光に満ちて現れた時です。そして神が見られたところ、それは、はなはだ良かったのです。さあ、この人です。この言葉は、アダムとエバが、罪を背負い、おびえて、うなだれながら、こっそり園から出る時、聞かれました。さあ、この人です。この言葉は、イエスがその聖金曜日に苦難をうけられた時、天で、あわれまれて、再びこだましました。さあ、この人です。この言葉は今、イエス・キリストの血で堕落の罪から清められて、再びパラダイスの光の栄光の衣にくるまれ罪人ひとりひとりに喜んで語られます。

神はどんなに天からあなたを見つめておられるか、考えてごらんなさい。墓場と永遠の滅びに向かっている罪人としてですか、それとも、天にのぼって行く、救われた罪人としてですか。「さあ、この人です。」と主の口から、あなたのことを語られる時、この言葉はどんなに聞こえるでしょうか。(以上、同書270頁より引用、一部引用者が表現を変えたところもある)

 さて、このようなピラトによる再三再四の呼びかけにもかかわらず、人々の「十字架につけろ」という声が勝つ。そしてイエスは十字架にかけられた。聖書はさらに次のように伝える。

 そこでピラトは、そのとき、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを受け取った。そしてイエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所に出ていかれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。(新約聖書 ヨハネの福音書19章16〜18節)

 まことに聖金曜日とは大変な一日である。

ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。(新約聖書 ヨハネの福音書1章29節)

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(新約聖書 2コリント5章21節)

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