2024年2月7日水曜日

恵みとあわれみとの冠

白鷺の 降り立つ河原 雪白し

 昨日と打って変わって晴れた一日となった。樋(とい)を伝う、雪解け水の「せせらぎ」、と言っていいのか、もっと上手い表現がありそうなのだが、思い浮かばない。その音は私の郷里滋賀の冬の思い出へと一挙に引き戻す。寒い寒い冬、雪に閉じ込められる思いがする中で、この融雪水の流れる音はそのまま春のおとづれを伝えるようで心が暖かくなったものだ。

 勇気を出して今日も古利根川を散策した。昨日あんなにたくさんいた鴨たちは一体どこへ姿を消したのか、ほとんど見かけなかった。それでも桜の木々には、小鳥たちがチュッチュ、チュッチュと囀っている。梢のてっぺんの方で彼らは彼らで陽の光を喜んでいるのだろうか。囀りの声で、即座に鳥の名前が言えればさぞ楽しいだろうなあーと思い、せめて囀りを擬音化してみようと試みるのだが、これが中々うまくいかない。

 そろそろ今日もこれにて散歩は終わりと橋を渡っていたら、何やら白い羽根を羽ばたかせて上空から舞い降りる鳥がいた。白鷺だった。昨日は姿を見せなかったが、昨日の不在を今日埋め合わせるかのように。こちらは、あわててiPhoneを引っ張り出し、その姿を追う。残念ながら彼の飛行はとらえられず、かろうじてその歩みを追うばかり。ただ、遠ざかり行く彼の姿と土手に積もった雪、また川の間に挟まった写真が出来上がった。写真(家?)の迫田さんは雪の景色を綺麗に撮っていた(※1)。

 ところで、今日は我が誕生日だった。痩せ我慢を張るわけではないが、誕生日だからと言って特段、何もするわけではないが、子どもたちがそれぞれ祝意をあらわしてくれる。みな、LINEだが、それで十分だ(※2)。次女の出産予定日は昨日だった。むしろその方が気がかりだ。生まれたら、それこそ文句なしの祝い事だ。一緒に祝いたくなるのが人情というものだろう。逆に言うと、81年前、やはりそんな人々の期待、祝意をもって自分も迎えられたのだと思うとただ感謝である。

 『日々の光』という聖書日録の今日の箇所はそんな私にうってつけのみことばであった。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。・・・主は、あなたのすべての咎を赦し、・・・あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせられる。(旧約聖書 詩篇103篇1〜4節)

※1 https://www.sakota575.com/%E4%BD%9C%E5%93%81%E5%B1%95%E7%A4%BA%E5%AE%A4%E2%91%A1/

※2 午後、一人の方の要請を受けて、友人とその方を訪ねた。私は、初対面だとばかり思ってお訪ねしていたが、その方はお会いするなり、「お久しぶりです」と言われた。話によると、20年前私の家に来られてお話しした、その上家内から聖書をもらったと言われた。私はすっかり忘れていた。辞去して、帰り道、その方のことを少しずつ思い出し、すっかり忘れていたことを申し訳なく思った。国会では盛山文科相が、最初は記憶していないと言い、翌日追求を受け、少しずつ思い出したと答弁して問題になっている。彼我の違いは、政治家と一市民との違い、それゆえに責任の重さの違いこそあれ、すべてを知られる神様の目から見れば、もし、私がその方に記憶していないと言い張るなら、同罪だと思わざるを得なかった。今はその方に、一時的とは言え、その方に覚えていないと言った私の非を謝りたいと思っている。一方、人間には記憶違い、とんでもない思い違いがあることも事実だ。そして81年間の我が歩みの中には、覚えていないこと、忘れてしまっていることが、まだまだたくさんあるのだと思い至った。だからこそ主の恵み、あわれみはありがたいのだ。

2 件のコメント:

  1. お誕生日おめでとうございます!
    突然自分の名前が登場してびっくり。
    お互い生存確認というか、日常の暮らし、思いを確かめ合う間柄なのですね。
    これからもよろしく。

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  2. ごめんなさいね。そうでもしないとあなたの折角の写真や俳句が皆さんにも見ていただけないかなと思い、書きました。

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