2024年2月25日日曜日

『涙の谷を過ぎるとも』(下)

北海道・駒ヶ岳(1131m)※1
 今回、『涙の谷を過ぎるとも』を再読して、気づかされたことは多くある。もともと著者坂本幸四郎さんは旧制函館中学生のとき、アメリカ人宣教師の主宰する小さな集会に出席していたが、ある時、集会は閉鎖され、宣教師も帰国した。それは日米の間に戦争が始まったからである。それに呼応するかのように、著者坂本さんは教会を離れた。

 そして戦後まもなく、卒業後選んだ国鉄職員の道(青函連絡船通信士)の中で労働運動に邁進し、共産党の党員となるも、党の実態は戦前の日本社会が抱えていた病理そのものである家父長制でしかないことに失望、脱党し一線から退く。キリスト教への接近から、唯物思想への接近と、振り子は大いに揺れたが、そこにも安住する場はなかったのだ。果たして戦後自分はいかに生きていくべきか考えていた時期、その問いに真正面に取り組んでいたのが、全16巻からなる『戦後思想大系』であった。

 そして端なくも見出したのが、自分の住んでいる函館で起こった戦前の「小山宗祐牧師補の自殺」という衝撃的な事件であった。しかし、その事実は同じ教派であるホーリネス教会でもしっかりととらえられておらず、徒手空拳とも言うべき、しかも未信者である坂本さんが一切を知るべく奔走したことにより事態が徐々に明らかになっていくという構成であった(※2)。その主舞台は函館であった。そしてふと気づくと、小山宗祐さんは大正5年(1916年)1月生まれだった。

昭和7年6月27日 柏野 北海道号来る
 同じ大正5年1月生まれの人物に母の先夫吉田文次郎がいる。しかも、吉田文次郎は、森から旧制函館商業に汽車で通っており生活圏の一角を占めていた(※3)。小山宗祐さんと吉田文次郎は全く一面識もない別人だが、函館生まれの坂本さんが関西から牧師補として函館にやってきた小山宗祐さんの行動を一々紹介された文章を読むたびに、私の心の中では、いつしかこの両者は自然に重ね合わされていった。そうして小山宗祐さんは私にとってより身近な人ともなった。こんな本の読み方もできるんだなと思った(今までそんな読み方をしたことはなかった)。

 戸籍によると吉田文次郎は昭和13年(1938年)10月11日午後零時五分中華民国江西省瑞昌県瑞昌野戦病院に於いて死亡。小山宗祐は昭和17年(1942年)3月26日午前5時40分函館市新川町28番地に於いて死亡。片や吉田文次郎は22歳で野戦病院で死亡、片や小山宗祐は26歳で新川拘置所内で死亡している。

 小山宗祐が函館に来たのは、昭和16年(1941年)ごろであり、その時には吉田文次郎はすでに戦病死している。もし「戦争」がなかったら、ひょっとして両者は函館で会うことになっていたかも知れない。私の母は先夫を大変尊敬しており、その戦病死さえ、「文次郎さんは〔思想〕でやられた」とも私に言ったことがある。それは私の中学生時代に耳にした言葉で、それは「アカ」を指していたのではないか(と、思う)。本当のことはわからない。

 私の母美壽枝は北海道森町の吉田文次郎のもとに、滋賀から昭和11年(1936年)に嫁いでおり、二人の間にはまだ子どももいなかったが、「戦争」がなかったら、未亡人になることもなく、森町に住み続け、跡継ぎも与えられ、家族で函館や札幌に出かけ、一年に一度は留守宅である滋賀の地に帰ったのでないかと思う。一方、小山さんには将来を約束していた方がいたようなので、こちらは結婚し、良き助け手とともに、牧師として集会を持ち続けたのでないかと想像される。

 けれども「戦争」は昭和13年(文次郎死亡の年)、昭和17年(宗祐死亡の年)を足蹴にするかのように大突進をし、最後は大雪崩のすえ、昭和20年の敗戦となった。ために母美壽枝は昭和15年(1940年)には内地に引き上げ、昭和17年(1942年)には家を絶やさないためと、父膽吹清を婿養子として迎え、その間に私が誕生した。私は吉田家の一人息子として生を受け、吉田文次郎の後を継ぐ者となった(※4)。

 方や、小山宗祐氏は跡取りも残さず、この地上の生を終えた。遺されたものが彼遺愛の聖書であり、その聖書は坂本さんの手に渡ったのは、前回触れた通りである。その坂本さんもネット情報によると、1999年(平成11年)に亡くなっている。果たして今その聖書はどこにあるのだろうか。いやそれより、坂本さんのキリスト教への接近は果たして最後どうなったのだろうか。

 坂本さんは、イエス・キリストの教えには心惹かれるものがあっても、聖書の非科学的なところが受け入れられず、また現実のキリスト者のありかたにも飽き足らず、かと言って社会改革の道を歩む運動体にも希望が持てず、一人のキリスト者の死の道を辿ることを通して、求道の道を続けられたのであろうか。その成果がこの一冊の『涙の谷を過ぎるとも』(1985年刊行)の本であった。その書物が出版されるころ、すなわち1984年(昭和59年)、職場の同僚とともに、函館の地を歩いたときは、私は胸底に吉田文次郎・美壽枝夫妻の故地を訪ねる思いを秘めており、思いは森に集中しており、函館遊歩の時は残念ながら上(うわ)の空であった。

 81年の歩みを許され、こうして様々な人々の歩みを知るにつけ、いついかなる時も懸命に生きるべきことを教えられた。函館は生涯一度しか訪ねたことがない。その函館を通してこんなにも多くのことを考えさせられるとは。「あだや人生無駄に過ごすべからず」である。それが私のこの本を読んでの率直な感想である。

※1 母のアルバムにあった写真であるが、亡夫吉田文次郎の撮影によるものと思われる。今まで何となく、この写真を見ていたが、今回、よく撮られている写真だと思った。私の撮った写真(『涙の谷を過ぎるとも』上、所載)は駒ヶ岳を背後にして駅頭から湾に向かってのものだった。以前、この森町にOMFが初めて入ったことを記した。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2020/05/blog-post_22.html
この湾奥から森町に彼らは上陸したことを追体験し、これまた感慨を新たにさせられた。

※2 この事実は一人のキリスト者であり、同志社で教鞭を取られていた和田洋一氏たちによって初めて明らかにされた。

※3 今回、吉田文次郎の遺したアルバムを点検してこの写真に注目せざるを得なかった。
キャプションは吉田文次郎の筆跡であり、昭和7年は彼が15、6歳のころである。このような小型飛行機は国民の拠金として軍に献上されたものである。彼はこの勇姿を収めている。この時、彼は、アカどころか、一端(いっぱし)の軍国少年であった!

※4 この辺の事情については本ブログに既に投稿してあった。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/08/blog-post_15.html

 唐突だが、今朝の春日部の福音集会で話された方が引用されたみことばを記して置く。私にとってこの本を二度まで読んだ(いや、二十数年前をふくめると、三度と言うべき?)感想と無関係ではない、聖書のみことば、イエス様のおっしゃったことばであった。

もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(新約聖書 マタイの福音書17章20節)

「からし種」と「山」、何と対照的なものをさして、イエス様は私たちの迷蒙を打ち砕いてくださるのだろうか。所詮、私たちの信仰はもとより、私たちの存在は、からし種に過ぎない。それが「不動」にして「大いなる」山を動かすことができるとおっしゃっている。そんな馬鹿なことが、と誰しも思う。極めて良心的で真摯であった坂本さんが「聖書の非科学的なところが受け入れられず」と言われたのは、このようなイエス様のことばもふくんでいるのではないかと思う。しかし、神の上に人がいるのでなく、人が創造主である神の前に頭を下げなければ、信仰は生まれない。恐らく、その一点が坂本さんをして、福音から遠ざからしめたのではないかと思う。

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