2020年5月18日月曜日

霊界の黙示(中)



 「われ鬼神(きしん)を語らず」とは、孔子の有名なことばであり、私がその意味を知らないわけではない。何よりもイエス様は「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(ヨハネ3:13)と天について語ることは主ご自身であって、人間が知り得ない領域であることは確かである。その点、以下引用するサンダー・シングのことばはあくまでも一つの寓話※と解したい。彼は主を信じて召された人が天から地上を見る時、どんな状態なのかを「想像」して書いていることに注意して読む時、聖書の真理から逸脱することは避けられるのではないか、と思い、以下『霊界の黙示』78〜82頁より引用させていただいた。

愛する主の慰め

 彼の魂が肉体を離れるや否や天使らはその腕に彼を受けて去ろうとした。しかし彼は数瞬間待つことを乞うて、その命のない肉体(自らの亡骸)と、友人らを凝視し天使らに言うた。『私は肉体を離れた霊が自分の体とその友とをこのように見ることが出来るとは思わなかった。私は友人らが私が彼らを見るように見ることが出来ることを願う。もし出来たならば彼らは私を死んだ中に数えず、また私のために泣かないであろう』と。かくて彼は自分の霊体を検(しら)べて美しく輝きかつ妙にして、粗雑な肉体とは全く異なることを見出した。これによって彼は冷たい形骸に向かい泣きつつ接吻している妻子を抑制しようとした(「泣かないでいいよ」、とすがりついて離れない妻子の行動をやめさせようとした)。

 彼が美妙な霊の手を延べて彼らに説明し、大いなる愛をもって彼らをその亡骸から去らしめようと努めた。しかし彼らは見ることが出来ず、その声を聞くことも出来ない。子どもらをその死体から離らせようとした時に、その手はちょうど空気かのごとく肉体を通り去って、彼らは全くそれを感ずることが出来なかった。時に天使の一人が言うた。『来れ、我らは君を永遠の家庭に伴おう。彼らのために悲しむな。主ご自身もまた我々も彼らを慰めよう。この離別はわずかの日数に過ぎないのだ』と。

 やがて天使(みつかい)らに伴われて天へ向かった。彼らが少し進むや、他の天使らの一群がこれに逢って「歓迎」と叫んだ。先に死んだ多くの友と彼の愛した人々もまた彼を迎えた。これを見てその喜びは一層増し加わった。天の門に達すると天使らおよび聖徒らは黙して両側に立った。彼が中に進むや、入り口においてキリストに逢い、直ちにその足下にひれ伏して拝した。しかし主は彼を引き起こし、抱いて言い給うた『良くやった。善かつ忠なる僕よ、汝の主(あるじ)の喜びに入れよ』と。その時彼の喜びは言い表わすことが出来なかった。彼の眼から涙が流れ落つると主は大なる愛をもってこれを拭い去り天使に向かって言い給うた。『彼のために初めより備えられた最も栄えある住居に伴い行け』と。

 そこでこの人の霊はなお、地上のような思想を持っていたから主に背を向けて天使らとともに離れ去ることは主を汚すことかと思い躊躇したが、遂にその顔を住居の方に向けると、どこからでも主を見ることが出来ることを知って驚いた。そはキリストは何処にも現在し給いどこからでも聖徒および天使らに見えるからである。主と共に彼の周囲が喜ばしいものをもって囲まれているのを見て、歓喜にみたされた。ここでは最も低いものも、最高のものに対して決して妬みをもって他を見ることなく、また位置のすぐれているものは、彼らの兄弟の低い位置におる者に仕え得ることを幸福としている。これは神の国にしてまた愛の国だからである。

 天の各所に宏壮な園があって、いつも各種の異なった美しくして甘味な果物を生じすべての美しい香りの花が咲き、決して凋(しぼ)む時がない。その中で各種の被造物は絶えず神を讃美する。色彩(いろ)の綺麗な鳥が美しい讃美の声をあげ、天使や聖徒の美妙な歌は、これを聞く時驚くべく有頂天とも言うべき喜びを経験せしめる。どこを見るもはかることの出来ぬ喜びの光景を示さないものはない。真にこれこそ神が己を愛する者のために備え給うたところのパラダイスであって、そこには死のかげも、誤りも、罪も、苦しみもなく、いつまでも続く平和と喜びとがある。

(※このことを訳者である金井為一郎氏は「この単純にして不思議なーー世界に比類の無いーー書物を日本に紹介するにあたって、読者は原著者の人物と経歴とを簡単にでも知っておく必要があると思う。未だ聞いたことの無いおとづれであるから、単なる一個の空想家が書いたとすれば誠に価値の少ない寓話と考えられてしまう。しかし著者自身が世界の驚異である」と言っている。しかし私はそこまで手放しにこの本の叙述をことごとく認めているのではない。ただ著者が、「人間の魂は不滅であって、永遠のいのちとして生きるのかそれとも滅びを待つのかが肝要だ。だからいそいで私たちは福音を伝えねばならぬ」(昨日の吉祥寺ネット配信のベック兄のことば)という思いを共有している点は評価してあえて紹介させていただいている。)

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