2020年5月19日火曜日

霊界の黙示(下)



天の住居

 かくしてこの神の人は遥か遠方から自分のために指定された住居を検べているのを見た。そは天に在ってはすべての物が霊的であり、霊の眼は中間の物を透して計ることの出来ぬ遠距離をも見ることが出来るからである。量(はか)りがたい膨大なる天の全距離を通して神の愛が顕(あら)われ、その中のどこでも神の造り給うた各種の物が喜び尽きぬ有様において、神を讃美しまた感謝しているのを見ることが出来る。この神の人が天使らに伴われて、定められた彼の住居の入り口に達した時、その上に輝く文字をもって「歓迎」としるされておるのを見た。しかして文字自身が聞こえる響きをもって幾度も「歓迎 歓迎」と繰り返し繰り返した。

 彼がその家に入った時に驚いたのはその前に主を見出したことである。その時の彼の喜びは、我らの言をもって言い表わし得る以上であって、彼は叫んで言うた。『私は彼(主)の命に従って主の聖前を去ってここに来たのに、主ご自身が私と住まんとしてここに在(い)給うのを見出した』と。この家には彼の想像力が抱き得るところのすべての物が在り、すべての者が彼に仕えんと準備していた。近い家には彼自身の心に似た聖者が楽しい交わりの中に住んでいた。この天の家は世の創めの先から聖徒のために備えられた国だからである。(マタイ伝25:34)しかしてこれこそ真にキリストに従うすべての者を待つところの栄えある未来である。

天の生活

 天においては誰も偽善者たることが出来ない。そはすべてのものは他の者の実情をありのままに見ることが出来るからである。栄光のキリストより流れ出づる光は万物を照らし顕はならしめるから、悪人は悔恨の中に自らを隠そうと努め、義人は光明に満つる父の国に入るをもって無上の喜びに満たされる。そこにおいて善はすべての人に顕(あきらか)になり益々進歩して止む時がない。そは彼らの進歩を妨げるべき何物もそこに存在せず、彼らを支持するところのすべての助けが備わっているからである。義人の霊魂が到達した善の程度は彼の全容貌から放射する輝きによって知られる。そは品性及び性質は大なる栄を顕して様々に輝く虹の如き色彩の貌によって、それ自身を表すからである。天には嫉妬がない。すべての者が他人の霊的向上と栄とを見ることを喜び、全く利己的な動機なくして常に相互に、心より仕えんとしている。すべての教えがたい賜物と天の祝福とが、すべての共同な使用のためにそなえられている。誰も自己心より、自分のために何か貯えようと考えるものはなく、万物はすべての人にとって十分である。

 愛なる神は最高の天の御位に座し給うイエスの人格において見ることが出来る。「義の太陽」にして「世の光」なる彼より、癒しかつ生命を与うる光線と、光と愛の波とが流れ出でて、彼の宇宙の最も遠い果てにまで及び、すべての聖徒と天使とを通して流れ、その触れるところ、何物にも活力を与えて元気を満たすのを見る。

 天には東も西もまた南も北も無く、ただ人あるいは天使の各々にとってキリストの御位はすべてのものの中心として現れる。

 そこにはまた各種の美しく甘味な花や果物や多種類の霊的食物がある。それらを食う時には優れた風味と爽快とを経験するが、その美しい香気に同化した後、四周の大気を香しくするところの佳い香りを体の気孔より発散する。

 簡単に言わば、天に住むすべての者の願望と要求とは神にあって十分に満たされておる。そは各々の生活の中に神の意志が全うされ、天のすべての条件と、あらゆる状態との下において万人は驚くべき喜びの尽きることの無い経験を持つからである。かくして義しい者の到達するところは永遠の喜びと祝福とである。

(『霊界の黙示』83〜84頁、88〜91頁より引用。三日間にわたりカット写真として先日16日に召された村上恵子さん作成の絵手紙の作品を用いさせていただいた。ところが翌日の17日には菅野弘子さんが召された、毎日お二人のためにずっと祈って来た。お二人に天国の様子はどうですか、とお聞きしても聞かせてもらえない。その代わりにサンダー・シングの本から、その文章を引用させていただいた。翻訳文が昭和2年のことばであるので今の人々には了解できないかもしれないが、「天国語」とでも思い、何度も読んでいただきたい。熟読玩味、自ずと文意は通ずと思う。明日はそのサンダー・シングの本がなぜ私の手元にあるのか、その経緯に少し触れてみたい。)

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