2024年1月5日金曜日

ツィンツェンドルフ伯(下)

鴨の群れ 同方向に 泳ぐ冬(※1)  24.1.4

 さて、新しく発見したもう一つのことですが、それは、海老澤亮さんの本『海外伝道物語 モラビアン兄弟団の事蹟』と一緒に、他の20数冊の本やノート(※2)と一緒に無造作にしまいこんでいた『主の山上の説教』という三冊本とノートにまつわることです。

 この本も、随分以前にいつか必要な時が来れば、読もうと思ってはいたが、結局読まず、今や捨て本近い扱いを受けて、ホコリをかぶっていたものです。ただ『主の山上の説教』という本の著者がジョン・ウエスレーであることは絶えず念頭にありました。

 ところが、海老澤さんの昭和10年(1935年)に刊行された例の本を、さらに読み進んでゆくうちに、次のような記述がありました。(同書13〜16頁)

メソジスト運動への影響

 ジョン・ウエスレー は、1738年5月24日、ロンドン・アルダースゲート街のモラビアン兄弟団の集会において「その心不思議に熱せられ」ライン地方を旅してマリエンボルンでツィンツェンドルフ伯を訪ね、それからヘルンフートへ来て、数週間滞在して兄弟団の信仰生活にひたり、同年の八月英国へ帰った。次の手紙は彼が帰英後に書いたものであるが、それはヘルンフート文庫に保存されてある。斯くてモラビアン運動がメソジスト運動の原動力を成したことは、特に記憶せらるべきところであって、次の手紙はその当時の事情を偲ばしむるよい資料である。

ツィンツェンドルフ伯宛(アムステルダムに於ける)

 その小さき一人の者に為された凡てのことを、ご自身のためにせられたものと数え給う我らの恵みふかき主は、貴下を始め伯爵夫人及び凡ての兄弟たちが、私のために尽くされた多くの親切に対し、それを七倍にして酬い給うことを祈る、もし私が、かくも互いに相愛する兄弟たちともっと長く過ごし得たならば、どれほどの満足であったでしょうか、けれどもそれは許されませんでした、主はその葡萄園の他の部分で働くように私を呼びかえし給うたからであります。否私はもっと早く戻らねばならなかったのでした。何となれば、一面門戸は開かれ大いなる効果も見られますが、反対者はまたその前に多くの躓きの石を置き、ために弱い者は日々道を離れつつあったからであります。数え難いほどの誤解が起こり、そのために真理の道は多く瀆(けが)され、そして憤怒、騒擾、過酷、罵詈、猜疑、闘争、嘲弄、邪推などが続発しました。そして敵はその機会を利用して小さき群を傷つけ、他の者はこれに加わらなくなりました。

 されど我らの恵みある主は、大部分これらの妨げの岩を取り除き給いました、主のみことばは伝えられ且つ崇められ、その聖業(みわざ)は進み且つ栄えております。至る所に大衆が覚醒して叫び出しました。「我ら救われんために何をなすべきか」と。彼らの多数は、天下に救われるべき唯一の聖名(みな)があることを知ります、それを呼び求むる者は益々加わりその聖名(みな)によって救いを見出しました。彼らの信仰は彼らを全くならしめます、そして彼らは一つ心、一つの魂になりました。彼らは互いに相愛し、その召命による同じ信仰と希望とにおいて一つの霊、一つのからだに結び合わされております。

 オランダおよびドイツ、ことにヘルンフートにおける兄弟たちの愛と熱心とは、我らの間の多くの者を激励しました、彼らもまた、神もし許し給わば、貴下にお目にかかり、その大いなる尊い約束に預かることを望み、ただ私が愛の果(み)を彼らにわけ与えるだけでは、その心に慰めを得ないでありましょう。

 些細なことについて率直に申し上げれば、私の賛成しかねることもありましたが、それは多分私が充分貴下を理解し得ないためでありましょう。

 恩寵(めぐみ)豊かなる主は、すべてのことにおいて公正なる判断を貴下に与え給うように祈ります。そして益々謙譲と柔和と、純情と質素と、真剣さと細心の注意とに富ましめ給わんことを祈ります。一言もってこれを覆えば、信仰と愛とに富ませ給い、ことに信仰のない者に対して、天に在す貴下の父の恵みふかき如く、貴下も恵みに富まれんことを祈る者であります。

 私は貴下の不断の篤き御祈りを希う、斯くて神はその同じ聖霊(みたま)の一部をわけ与え給うように・・・

 貴下に負うところ多く、深い愛情をもてる、
 けれども又価値のないキリストにおける兄弟   ジョン・ウエスレー 

             ロンドン 1738年10月30日

 言うまでもなく、これはジョン・ウエスレー がツィンツェンドルフ伯に宛てた手紙です。

 ジョン・ウエスレー の1738年5月24日の霊的覚醒の出来事は人口に膾炙(かいしゃ)されている余りにも有名な出来事なのですが、私はかつてオズワルド・チェンバーズのやはり霊的覚醒を語ったランベルトによる評伝を読んだことがありますが、そこにはジョン・ウエスレー の経験を引用しながら、次のように書かれていました。

 ラッテンベリー博士は、ジョン・ウエスレー の回心の経験を書き記して「炎がよく用意されていた炭火の上に落ちた」と言いました。エッツワース牧師館での訓練の年月、信仰篤い母親の愛、秩序あるオックスフォードでのホーリー・クラブ(の生活)、それに神にささげられた生活ーーこれらが準備された炭火を整えて、アルジャスゲート通りの上の部屋で、永続的な影響をもつ神の炎が点火されたのです。チェンバーズにも彼を神の炎に燃やされた預言者にする恐ろしいまでの打ちのめす経験がおよそ30年という準備の背景にあったのです。(『Oswald Chambers』David W. Lambert著23頁より私訳)

 このようなことが私の知っているすべてでした。ところが今回、私が手に取った海老澤亮さんが昭和10年(1935年)に著された本の中に、ジョン・ウエスレー がツィンツェンドルフ伯に宛てた手紙が紹介されていたのです。これはまさに私にとって初耳で、それも私の捨て本の中の20数冊の本の中に、仲良くホコリにまみれながらも、私が目を通すまで、私の無関心・黙殺をよそに、まるで互いに隣人同士で語り合っていたかのように、私がその本を開いて読むように、2024年の冒頭に至るまで存在し続けてきたことに深い驚きを感じたのです。そして改めてツィンツェンドルフ伯を通して働かれた主のご摂理を覚えたのであります。(これを機会に今まで敬遠してきた、ジョン・ウエスレー のその本も読んでみたいと思っています)

 そして、端なくも私たちの良き導き手であったベック兄・宣教師もドイツのアイドリンゲン姉妹会、ドイツの各集会、イギリスのオースティン・スパークスのHonor Oakに集う人々など、ヘルンフートを根城としたモラビアン兄弟団に相当する兄弟姉妹の祈りに支えられて日本人の救いのために来日し、日本に骨を埋められたことを思うことができました。

 そして、新年早々私にメールでツィンツェンドルフ伯の言葉などを送ってくださった方は、まさにそのような働きの中で救われ、今日までその信仰生活を歩んでいらっしゃるご夫妻だったのです。だから、私がタイムリーにそのご夫妻から受けたメールをどうして喜んだか少しでもお分かり願えたのではないでしょうか。もちろん、これらは小さなこと(些事)に過ぎません。しかし、今年、私はどんな小さなことでも大切にしたいと思わされております。これが、新年早々私が主からいただいた大きな恵みのことです。

※1 鴨は数えてみると全部で80数羽に達した。全部撮影した写真とも考えたが、鴨の姿が少しでも見えるものが良いと思い、上掲の写真を採用した。鴨は不思議と同一方向を目指すかのようであった。私にはその目当てとするものが、主であるように思えた。そして同時に悲しくも能登半島震災の死者は現在84名と報道が知らせていることも覚えた。東京新聞は賢くも、このために「助け合い、しのぎ 生きてる」と今朝の朝刊に大見出しを掲げた。そう願わざるを得ない。

※2 ノートは母が1961年5月22日44歳で、亡くなる二ヶ月ほど前に書き記した日記であったが、このノートの存在などすっかり忘れていた。海老澤さんなどの本とまた別の意味でホコリをかぶったまま数年放置したままであったが、元旦は、急いでそのノートを繰らせる日になった。

3/29
帰り早々下痢は止まらんかもしれんとガクッと来る。昨夕から何とか努力してもう一度起ちなおりたいと思っていた時だけに眼の前が真っ暗になりそう。何とか温かい励ましの言葉がもらえないものかしら?死を覚悟しているとは言え。
浩万利へ7時頃泊まりに行く。

3/30
来年の栄冠を獲得した時、去年の失敗があったればこそと喜んでくれたら、どんなにか嬉しいことだろうともうそれだけで満足。医者に捨てられても生きなければならないとそればかり。

3/31
腹がはるので浣腸するがどうもすっきりせず不快。昨日よりは力が出るが、丸い鏡掛けに映った顔、眼くぼみ、頬こけ、死の一歩前を思わせるようでギョッとする。

4/1
青木さん名工大へ入学。浩浪人になった事再び確認する。来年は頑張ってやらねばと身引きしまる。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただこの一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を目ざして一心に走っているのです。(新約聖書 ピリピ人への手紙3章13〜14節)

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