2024年1月3日水曜日

ツィンツェンドルフ伯(上)

 新年おめでとうございます。
新年早々嬉しいことがありました。実に小さなことなのですが、私はなぜか「ツィンツェンドルフ伯」のことが気がかりになっていたのです。

 そうしたら新年に入り、ご夫妻からLINEを通して、一通のメールが送られて来ました。そのメールにはみことばと併せて、ツィンツェンドルフ伯のことばが紹介されていたのです。それがその方のご許可を得て、今日上記のように転載させていただいたものです。ただここにはN.L.チンゼンドルフと書かれていました。ひょっとして私が知っているツィンツェンドルフ伯のことでないかも知れない。そして、私にはこんなに平易なことばで語られるのがツィンツェンドルフ伯なら、是非もっとそのことも確かめてみたいと思わされたのです。

 もう30年以上前でしょうか、教会に出席していた頃、古本で一冊の本を見つけました。その内容はツィンツェンドルフ伯の住んでいたヘルンフートの美しい村のならわしを記したものだったと記憶します。そのならわしとは夜回りが、「今は夜の何時か」と聞いて回るという内容だったと思います。「夜回り」と言えば、冬の寒い夜空を仰ぎながら、拍子木を叩いて「火の用心、御用心。戸締り用心、御用心。」と各家々を尋ね回ることしか経験していなかったのですが、この村では、キリスト者がいつも主の「再臨」を待ち焦がれていて、「今は夜の何時か」と問うて参るという、いかにも簡素な中にも、質朴な人々の日々の生業(なりわい)が記されていて大変好ましかったのを覚えているのです。その本は今日まで私の手元にあっては、その癖いつも何処かへ潜り込んで見えなくなってしまう不思議な本で、つい数日前にも確かこの目で見たものでした。

 それが年の初めの話として出て来たので大変びっくりし、第一、「チンゼンドルフ」なのか「ツィンツェンドルフ」なのか、はたして同一人物か知るためにもその本(実は児童向きの本ですが)がどうしても見たくなって、探すのですが、見つからないのです。雲隠れした状態でした。もう何回となく、書棚を隅から隅まで探すのですが、見つかりません。普段、そのような本を置く場所でないところまで探しても一向に埒(らち)が明かないのです。

 ところが意外なところに、その本ではないが、その児童書では物足りない、もっと詳しく書いた本が欲しいと思って、これは多分教会を出て集会に移ってから数年後、今から10数年前にやはり古本で見つけた『海外伝道物語 モラビアン兄弟団の事蹟』(海老澤亮著 基督教出版社刊行 昭和10年)が全く埃(ホコリ)を被(かぶ)った状態で出て来たのです。私ははやる心を抑えながら、その本を読み進めていき、また同時にネットでツィンツェンドルフ伯の姓名を詳しく調べたところ、まさに、Nicolaus Ludwig von ZinzendorfでN.L.チンゼンドルフは私が呼び慣れている「ツィンツェンドルフ伯」その人であることがわかりました。

 それだけでなく、不思議なことに二つの新しいことを気づかされたのです。今朝はそのうちの一つをご紹介したいと思います。私には尊敬するひと回り上の最年長のいとこで、今も健在で元気に過ごしている人がいます。ある意味で私の人生は、これは少しオーバーな表現になりますが、このいとこの姿を見て進路設計をして来たと言っても過言でありません。そのいとこが、私がキリストを信じたおり、そのお宅でたまたまそのことが話題になり、彼は私の狭量な信仰熱心の姿を戒める思いだったのでしょう。「キリスト教の宣教は下心があってのもので、そこへ行くと、仏教は何でも受け入れる、キリスト教より仏教の方がいいのじゃないか」と言われたのです。爾来、私は彼の言う「下心」説に納得できないまま、今日に至りました。

 ところが、この出て来た海老澤亮著の『海外伝道物語 モラビアン兄弟団の事蹟』の本をまだ頁を繰ることも間もないところに次のように記されていたのです。(同書3〜4頁)

当時はまだ海外伝道に志す者が極めて少なかった。新教において殊にそうであった。
羅馬教では既にその企てがあった。コロンバスはスペインから出て西巡で印度に往こうとし、バスコ・ダ・ガマという人はポルトガルから出て、東巡りで彼処に往こうとした。そして法王は彼らの発見したほどの土地は、みなその支配権のうちにあるものと考えた。

当時彼らの良心はそれらの土地がその所の住民のものであると考えるほどに鋭敏ではなかった。唯その住民が野蛮であるから、之を文化に導かねばならないとは考えた。それで法王は(今でもバチカン宮殿に残って居るといわれるが)一つの地図に、北極から南極まで、大西洋を境に直線を引いて、その西をスペインに、その東をポルトガルに与えると宣言した。唯条件はその発見する国々の住民に福音を伝えることであった。

これは随分乱暴な伝道方針であった。従って福音の使者が、度々侵略主義の手先と解されたのも無理はない。そしてそのような印象がつい最近まで世界の各国に言い伝えられたのは、真の宗教の使者にとって大変な迷惑であった。

 ここまでお読みいただければ、このくだりを読んだ私が心の中で快哉を叫んだ気持ちを分かっていただくのではないだろうか。年長のいとこが私の狭量な信仰を諭すために、私に痛打を浴びせかけたかに見える言葉は決していとこの誤解でなく、羅馬教、すなわちローマ・カトリック教のそのような伝道姿勢にあったのだと分かったからです。年長のいとこはローマ・カトリック教のことを言っていたのであって、それは私が信じた聖書に基づく信仰を理解してくれなかったことに起因するとは言え、あながちいとこの説は暴論ではないと思うことができたからです。積年のいとこに対する誤解が解けた思いで、いい新年を迎えられたなあーという思いでした。そしてそれだけでなく、私は年末、そのいとこのお嬢さん方(お顔も知らない間柄なのですが)と昨年の私のブログ『半可通の「柏木義円」紹介』が機縁で手紙をやり取りすることになりました。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/06/blog-post_13.html 
それだけでなく、昨年末のクリスマスの折り、このお嬢さんお二人が既に受洗しているキリスト者であることを初めて知ったのです。あれやこれやで意外な事実、しかも喜ばしい出来事に私は新年早々付き合わされております。

 明日はツィンツェンドルフ伯に関する、もう一つの大切な新しく発見したことをお伝えしたいです。

セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」(旧約聖書 イザヤ書21章11〜12節)

夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。(新約聖書 ローマ人への手紙13章12節)

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