2024年1月27日土曜日

地の極の開拓者(承)

蝋梅と 名付く先人 豊けきか 
 睦月も早や数日になってしまった。この月、毎年、線路道に決まって蝋梅が花を咲かせてくれる。ありがたいことだ。蝋梅について、このブログではすでに七篇書かせていただいているが、私にとっては、その最たるものはやはり義母との思い出を述べたものである(※1)。それはともかく、「ろうばい」という呼び名、またその漢字は「蝋梅」と書く。名は体を表すと言うが、私はその妙味を痛切に感じる。

 一方、棘(いばら)にその思いを捉えられた人がいる。その人が「ツィンツェンドルフ伯爵」である。「棘の冠」と題する、前回の「夜番の唄」に連続する文章を転写する。

 モラヴィアからの落人たちが若いツィンツェンドルフ伯爵の領地にやって来たと言うことは、少なくとも伯爵にとって一つの運命の決定とも言うべきであろう。最初の行きがかりは主の御名(聖なる名)のために故郷を追い出された人々に対する寛容さ以外ではなかったのであるが。

 A.T.ピアソンが「モラヴィアンの使徒」と名付けたツィンツェンドルフ伯爵は、敬虔派の学校の校長であるフィリップ・スペンサーとその高弟フランケとにその霊的系図を受けているのである。彼の祖父はオーストリアの貴族であったが、キリストのために一切を投げ出した人であり、その感化によって祖母も伯母もこのような霊的訓練を重んじた。だから、このような環境の中で成長した彼は、わずか四歳で、その愛する救い主との契約を立てたということである。そして未だ見えない救い主と交わろうとして、神の臨在の前を歩む真からのキリスト者であった祖母が、常に近くにおられる主と物語っている姿にならって、子供らしい単純さから救い主イエスにひとくさりの手紙をしたため、主は必ず受け取って読んでくださると確信して居城の窓から投げたという、いじらしい物語が伝えられているほどである。

 十歳の時、ハレにあるフランケの学校の生徒であった頃、彼は「芥子だねの一粒」団と名乗る小さな祈祷グループを組織した。このような精神が、後日大いなる実を結ぶに至ったのである。

 また、その青年時代に、当時の慣習に従い家庭教師を伴ってヨーロッパ遍歴の旅に赴いた途中、いのちの力である生ける救い主ご自身に一切を捧げる厳粛な神の召命の経験をさせられた。

 それはデュッセルドルフのある美術館でのことであった。棘の冠を戴き給う受難の救い主の前に立ち止まって見入る彼の心に、天来の声が響いて来た。そして絵の前を立ち去る若き伯爵は変わって新しき人となった。その絵の傍に記された文字は次のように読まれた。
『我れ汝がためにこの凡てのことを為したり、汝我がために何を為ししや』(※2)
若き敬虔な貴公子はここにイエス・キリストの熱心なるしもべとなったのである。

 彼はその敬虔さを行為に表すべきであった。贖い主を知ったという衷(うち)なる喜悦(よろこび)は信仰の究極ではなくして、彼をして、主のために何事かを成さねばやまない源泉となさせしめたのである。

 この少数の落人たちが伯爵の領地に入り込んで来たということは、その後引き続いて逃れて来る人々にとって平和な場所であったばかりでなく、ツィンツェンドルフ伯爵にとってもまた、天与の機会であったのである。彼らが新しい村を建設しようとするその企てに彼が興味を持ったばかりでなく、やがて彼らの指導者またその真の首領となり、この小さい群れのみならず、神なくキリストなき、異邦人の広大なる世界を思い、彼らの魂の救いについて隠れた大役を受け持つに至ったのである。

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/02/blog-post.html

※2 私はこの言葉が聖書のどこかにあるはずだと、一生懸命、文語訳聖書を探すのだが見つからなかった。駄目元という思いで就寝前、家内に何か思い当たることはないかと尋ねた。普段記憶の衰えている彼女は、その言わんとすることを汲み取り、一つの讃美歌を歌い出した。讃美歌332番(日々の歌113番)であったhttps://www.youtube.com/watch?v=N5GiKx6Eu6M。その歌の終わりは「われ何をなして 主にむくいし」であった。途端に、私は、2016年一年かかって訳出し、毎日せっせとブログに掲載していたハヴァガルに関する一つのエピソードを思い出した。そして大塚野百合さんの著書を引っ張り出して再読して、驚いた。ハヴァガルもまさしく同じ経験をしていたのだ。彼女もまた、同じ美術館で、しかも同じ絵を見て、棘(いばら)にその魂を震撼させられた人であった。そこには、ツィンツェンドルフ伯爵が18世紀に、ハヴァガルが19世紀とほぼ100年という時代の隔たりの違いはあったにせよ。そのところを『讃美歌・聖歌ものがたり』236頁より、引用して確かめてみる。

 (ハヴァガルは)ドイツのデュッセルドルフの美術館にシュタンバーグという画家の「エッケ・ホモ」(「この人を見よ」という意味のラテン語)という絵があり、その実物か、または複製を見て感動し、それを想起してこの歌を書いたという説があります。これは十字架にかかっているイエスの絵で、その周りにラテン語で「私はあなたのために命を捨てた。あなたは、私のためになにをしたか」と記してあるそうです。彼女は、この町に留学していましたから、その絵を見たでしょうが、手記には、何もそれらしきことは記していません。彼女は、祈りの時、イエスが彼女に「私は、あなたのために命を捨てたが、あなたは、何を私のために捨てたのか?」と語りかけられるのを聞いて、この歌を書いたのでしょう。十字架にかかって命を捨てたもうたのが、まさに自分のためであったと信じて、その恵みに圧倒されていたのです。

 この歌を無価値のものと思った彼女は、これを暖炉にくべたのですが、たまたま風でそれが焼けずに戻って来たので、そのまましまっていました。それを読んだ彼女の父が、良い歌だと言ってくれたので、彼女はそれを保存する気になったそうです。彼女の魂に語りかけられたことを書きしるした歌を、世間に発表することは、彼女にとって、気恥ずかしいことでした。この歌を見ると、彼女の幸福の秘密は、イエスが命を捨てるほどに自分を愛しておられることを彼女が信じたことにあるようです。

 この讃美歌には、アメリカの19世紀の優れた讃美歌作曲者フィリップ・ブリスの曲が付されています。ブリスは、ハヴァガルのように、神に完全に献身した人間であり、そのことに最高の喜びを感じていた音楽家、また伝道者であったので、この歌の言葉に感激しながら曲を作ったはずです。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/03/gospel-in-song_18.html

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/12/blog-post_27.html

神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(新約聖書 2コリント5章21節)

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