2015年4月15日水曜日

二年浪人後の大学生活(中)

彦根城表門橋にさしかかる内堀(※)

 大学入学は昭和38年(1963年)になった。遅れてやってきた春は微笑みをもたらしはしなかった。入学早々、私は多くの同級生たちが張り切って大学生活を謳歌し始めているのを横目に見ながら、なぜか心は晴れなかった。

 それは、ほぼ同じ時期に、私の家庭に父の後妻として嫁いできた継母との間でいかにその人間関係を構築するかに日々時間を奪われ、内なる情念の思いを抑えることが出来なかったからである。大学にも行かず、トンネルの中に入ったような日々が続いた。自らの内側にある「罪と汚れ」の虜になった。自らそうであってはならないと知りつつ、自分の力ではいかんとも出来かねず罪の赴くまま流されて行った。

 このような時、私は伯父の紹介により一人の中学生の家庭教師を依頼された。罪と咎の汚濁の臭いさえする私の家庭にその純真な中学生が通って来ることは一服の清涼剤のような思いさえした。しかも、後年、彼の姉を通して福音に触れ、その姉と結婚までするとはその当時はもちろん考えもしなかった。

 一方与えられた「経済学」という学問は、高校時代、私が価値を認めようとしなかった学問のうちの一つであり、私は、本来目ざそうとしていた「物理学」への執着が断ち切れず何とか文系の大学だが、理学部への転入できないかと考える始末であった。そのような中で唯一と言ってもいい授業に出会った。それは永岡薫さんの「社会思想史」という授業であった。ダンテの神曲が紹介され、資本主義発生史にまつわるウェーバーの論考、大塚久雄氏の論考などが次々と紹介された。その方は長身ではあったが決して健康そうには思えなかった。しかし、その内面からほとばしりでる清さのようなものは、罪・咎の真っ只中にいる私を圧倒し、同時に経済学に対する関心を初めて抱かしめた。

 ところが、ある時、大学の図書館でフォイエルバッハの『キリスト教の本質』という本を手にした。それは永岡さんが言わんとしていた福音思想をひっくり返す論考であった。人間性の謳歌そのものを巧みに描いた作品であった。次に、経済学の成立はそもそもいかにして可能かを考えていたときに手にしたマルクスの『経済学・哲学草稿』の中に私は次の言葉を見つけた。

「経済学は欲望の体系である。」

 私にとって、このことばはフォイエルバッハの本と同様に自らの脳天を打ち砕くのに十分であった。そうだ。欲望だ。「欲望」は否定の対象でなく、「肯定」の対象である。何をおまえはくよくよ悩んでいるのだ、おまえはむしろこの欲望の体系を妨げている社会悪そのものに目を向けて戦うのがおまえの生き方ではないのかという声が聞こえてきた。私はこうして一方では様々なキリスト教思想・文学に引きつけられながらも、他方では経済学という学問の存在根拠を確証するためにウエーバーとマルクスの思想を二つながら考えるという迂遠な道を歩み始めた。

 その後、生協運動の中で学生運動の前面に踊り出さねばならない羽目に陥った時は、敵前逃亡よろしく病気になり、体(てい)よくその現場から離れ、様々な思想家(森有正、吉本隆明)の本に沈潜し、自分の内側にある罪を再び内向せしめるように今度は思想武装さえするようになっていった。

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ(詩篇32・3〜4)

(※このお堀は風が吹いてもさほど波が立たないように工夫されている。それは水中を潜り城に近づこうとする敵をいち早く発見するために必要な造作であった。藤堂高虎の設計で、江戸城にも同じ特徴があると言う。高校時代、文化講演会で中村直勝氏が「このお堀がなぜ波立たないのかわかるか、天下の東高生が毎日お堀の前を通っていながら、わからぬのか」と講壇から挑戦的に言われて知ったことである。直勝さんは同じ滋賀県下の膳所高校の出身の著名な日本史学者であった。)

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