彦根城下京橋にさしかかるお堀(下片原町から見やる) |
先頃大学の同窓会に出席させていただいて端無くも自分の今日あるのはこの大学生活あってのことだと思わされた。長らく、自らの大学生活を振り返ろうとはせず、逆に高校生活を事あるごとに思い出していた。高校時代は当時ジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男」を英語の時間に読まされたが、まさしくそのままの生き方のように思っていた自分がいる。可能性が満ちていた青春の一時期であった高校時代を自分なりに美化していたからだろう。
それにくらべると、その高校時代の夢が破れた結果の大学生活であった。高校時代の一方的な明るさに満ちていた思い出に比べ、灰色のイメージが強く、いつもあの梅雨時分の雨がしとしと降り、しかし木々の緑はますます色濃くして行く様子は、自分の脳裏をかすめるが、思い出したくもない大学生活というとらえ方をしていた。
だから、同窓会の日程を知らされても、その日が別の用事が既に入っていて、絶対出席は無理だと頭から決めてかかっていた。ところがである。幹事から直接電話がかかってきて卒業以来会っていない、是非参加してほしいとの要請があった。いつもはこんな時、決して賛成しない家人が、なぜか、折角の機会だからこの際出席した方が良いと勧める。とうとう出席の返事を出した。折り返し、ついては5分間のスピーチをお願いしますという丁寧な依頼を添えた案内のはがきが届いた。
当初5分間で大学卒業後の来し方をまとめあげるのは至難の業だと思った。ところが準備している間に、私の大学に対する負のイメージに反して、現在あるのはこの大学生活があっての今だと、徐々に納得させられるように変えられていった。第一、私は簿記知識、商業知識はゼロであったが、この大学の前身が高等商業学校であったため、そのような無能力な私に大学は「商業科教員」の免許を難なく与えてくれた。わずか紙切れ一枚の免許状は効力を発揮し、本来なら社会生活ができず、路頭に迷ったであろう私が商業高校の教員になったからである。
このことだけでもこの大学に感謝しても、し過ぎることはない。のちに社会科の教員に鞍替えするため、他大学の通信教育で社会科教員免許状を取るのに大変苦労させられた。それもこの大学の人文地理を生意気にも落としたからである。非はこちら側にあり、大学側にはないのだから、負のイメージそのものが大変な自らの思い違いであることをこの際思い知らされた。でもこのことも何となく格好よく言ったが、実はこの非をはっきり自覚させられたのは同窓会でK氏に会い、その上、家に帰ってからK氏の書いた文章を読んでからである。
自らがいかに傲慢であるかを改めて知る。
そのK氏の文章を拝借させてもらう。『我が青春の彦根』(http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/13433/1/%E3%82%8F%E3%81%8C%E9%9D%92%E6%98%A5%E3%81%AE%E5%BD%A6%E6%A0%B9%20.pdf)という文集に掲載されている、『大学留年』と題して記載されている文章の以下の冒頭部分である。
大学に入学したのが昭和37年、卒業が昭和42年、在学5年、1年留年しました。留年の大きな理由は人文地理で落ちたのですが、私が生意気な生徒だったことが遠因でした。二年から三年への進級が遅れました。その結果生意気だった私の鼻が少しは折れて、留年したおかげで、その分いろいろな経過を積むことができました。
さりげなく書かれている文章だが、この筆者もまた人文地理を落としたのである。しかも留年という高い犠牲を払わされた。私が欲しい社会科教員免許状をそのために与えられなかったのとは事情が違う。このK氏は払わされた代価にもかかわらず次のように結ぶ。
こうして振り返ると彦根で5年の大学生活をしたことが私の人生を豊かにしてくれました。彦根は私の生命の灯を灯してくれたところです。
私もこのK氏にならって『二年浪人後の大学生活』とでも題して、少し書かせていただこうかしら・・・
イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13・7)
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