イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。(マルコ3・1)
青木澄十郎氏の霊解(『マルコ伝霊解』39頁)
イエスはよく会堂に入り給うお方であった。ラビたちがいかに化石化していても、パリサイ人たちがいかに偽善化していても、そこにいかに恐るべき罠がかけられてあると知っていても、イエスはやはり会堂に入り給うお方であった。
私は教会主義には反対であるが、教会無用説に与(くみ)したくもない、多くの人とともに神を礼拝することは好ましいことである。しからば、何らかの方法をもってこれを経営していく必要も認めざるを得ない。
もとより、腐敗し俗化した教会はこれを憎まなければならない。これが革正(かくせい)を計らなければならない。けれども全く孤立した信仰生活を送るのは危険が多くて私のような弱い者にはできない。イエス当時の会堂にも、今の教会にも実に恐ろしいことは多いには相違ないが、イエスはよく会堂に入った。
祈祷
天の父よ、私は弱くして、独立独行は私がなし得るところではありません。願わくは私に良き信仰の友を与え、良き祈りの友を与えて、この世の旅路を安らかに歩むことを得させて下さい。アーメン
(青木氏がどういう信仰の持ち主かはわからないまま、見切り発車の形で同氏の手引きによってマルコの福音書をともに読ませていただいて多くの恵みをいただいているが、今日の箇所はブログ子としては前回〈2月6日http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/02/blog-post_6.html〉に続いて納得できないところがある。それは中段の文章である。特に「何らかの方法をもってこれを経営していく必要も認めざるを得ない。」と断じておられるところである。教会の主はイエスさまであり、主を信ずる者はその肢体で、御霊なる神様が支配権を持たれ、そこに主にあっての教会が形成されるのである。「教会」は決して何らかの方法をもって「経営」できる代物ではなく、主によって形成される、言うならば「有機体」である。そのことを青木氏が否定しておられるとは思えないが、もし、そうだとすれば、なぜ人間による経営という言葉が前面に出てくるのか、その点がブログ子としてはにわかには承服できないところである。)
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