そこでイエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が知らされているが他の人たちにはすべてがたとえで言われるのです。それは『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」(マルコ4・11〜12)
『他のひとたち』とイエスは言われた。かつて私が鹿児島に行ったとき、彼の地の人が私たちを『よそもん』と呼ぶのを聞いた。軽蔑した意味があったか否かは知らないが、たしかに理解を異にする人間との意味がふくまれていたように感じた。なるほど鹿児島人同志が話しているのを立ち聞きしても少しもわからない。自分は『よそもん』にちがいないと感じた。
イエスは博愛のお方であって、世界人であるが霊の世界にはやはり『よそもん』があるということを教えられた。これは生まれがちがう『よそもん』ではない。心をかたくなにした『よそもん』である。彼らに神の国の言語のわからないのは『赦されることのないため』の刑罰である。理解ができないから信じられないのではなくて、信じない人には当然の罰として理解の力が与えられないのである。
祈祷
神よ、私はまだ天国の奥義を悟ることはできませんが、そのイロハを語ることはできますことを感謝申し上げます。願わくは、私に信仰を増し加えてしだいにあなたの言語を理解できる者としてください。アーメン
(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著56頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。以下、クレッツマンの黙想を『聖書の黙想』68頁から引用する。
主は・・・神の国に関して、・・・啓示されている事柄を知る幸いな特権を指摘された。わたしたちにとっても、このことについての知識は、人間の思索の結果ではなくて、神がイエスのことばをとおし、イエスを愛する者たちに、目がまだ見たこともなく、耳は聞いたことなく、心はいまだその中に入ってきたことのない事柄を啓示されたからだ、ということを心にとめておかねばならない。
ある者たちは不信仰なユダヤ人のようであるだろう。このたとえは、そのような彼らを善しとしていない。人は、彼らがなぜ、彼らの目には明らかであることを理解せず、またわかりやすいことばで語られた事柄を聞けなかったのかと、いぶかるかもしれない。しかし、人が真理に対して心を固く閉じ続けている時には、彼らが信ずることも、救いにも至り得ない神のさばきとして、その真理は彼らにかかわってくるのである。
※ロシアによるウクライナ侵攻が現実化した。gloomyな一日の始まりであった。そんな今日、一人の方からうれしい電話があった。長年救いを祈っていた方が、イエスさまのみことばをすなおに信じて喜んでいるという知らせであった。86歳だそうだ。何歳であろうとイエスさまはいつもみことばに耳を傾け心を開くように聖霊をとおして働いていてくださり、その方がそれに応えられたということだ。新しいいのちの誕生だ。まことにおめでたい。それに反し、力づくで自己の思うように世界を動かそうとしている人間の存在をどうして認められようか。主の御名をあなどるなかれと言いたい。)
0 件のコメント:
コメントを投稿