2022年2月22日火曜日

聞いて悟らせてください

接骨医 励ましのわざ 快し 水仙ことば 玄関飾る※ 

おびただしい数の群衆がみもとに集まった。・・・イエスはたとえによって多くのことを教えられた。・・・そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4・1、2、9)

 三種の人々が集まって来た。穴さがしを目的とするパリサイ人や学者たち、一時の人気で集まった軽薄な大衆および真に彼を信じようとする者とである。イエスは今この危機に際してこれら三種の人たちにそれぞれ適するように語らねばならなかった。

 揚げ足をとられて時至らぬうちに倒されては困る。軽薄な大衆は淘汰(とうた)せねばならぬ。信ずる者にヨリ深い真理を教えねばならぬ。そこでたとえを語り始められたのである。

 敵する心の者には意味がよくわからぬから揚げ足をとることができない。軽薄な人には同情が足らぬから意味がよく徹底しない。真の弟子となるべき人ならばたとえわからなくともさらにイエスに問うだけの真剣さを見出すことができる。すなわち『聞く耳のある者』だけに聞かせられたのである。主は今でも同じ方法で私どもにお語りになることが多い。

祈祷

主イエスよ、私にあなたの声を聞く耳を与えてください。もし理解できないとするときも、さらにあなたに問い祈り求める真剣さをお与えください。アーメン 

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著53頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。以下、久しぶりにクレッツマンの黙想を『聖書の黙想』67頁から引用する。

 主は、人々にとってとりわけ何が必要かを知っておられた。群衆のすべてが主を見ることができるように、また、その話がよく聞けるように、岸から少し離れた小舟に座を占められた主は、彼らに教え始められ、多くのことを語られた。主がよく用いられた教えの方法は、たとえをもって、それを生かされることだった。人々の日常生活の中から引き出されたこれらのたとえ話は、永遠の諸真理を、人々の理解能力に応じてわかりやすく説いている。

※主にある兄弟に、昨日から治療していただいている。帰りがけに玄関先の絵手紙に気づき撮らせていただいた。母上が描かれたということだった。「さむさにたえてさいている」。勇気をいただいた。)

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