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イエスは・・・その(手のなえた)人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。(マルコ3・5)
イエスの御力と信仰の働きとの合致を如実に示している。主のみことばを聞いたこの人の心に直ちに『手を伸ばし』てみようとの心が起こったのがすなわち信仰である。いくら『手を伸ばしなさい。』との声が耳に入っても、その人の心に『手を伸ばしてみよう』との心が起こらなければ癒されない。
もちろんイエスのみことばがその耳に入るや否や動かなかった手に何らかの力を感じたには相違なかろうが、とにかくイエスの御力はこの人の意志を通して働いたのは事実である。
私どもも単純で従順な心持ちでイエスの御声を聞きそのままに行なってみるならば、そこに意外な力の流れを実験するであろう。『彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。』の語は『彼はするとその手が元どおりになった。手を伸ばした。』と書かれるよりもはるかに興味深い。
祈祷
主イエスよ、信仰の薄い私を棄てないでください。手を伸ばしなさいとの御声を聞きつつも手を伸ばすことができないと感じる弱い私をあわれんで、御声に答えてこのなえたる手を伸ばす信仰をお与えください。アーメン
(聖書をどのように読むかは私たちにゆだねられている。青木氏が上記の聖書の中で『・・・』と省略した箇所がある。そこには『怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら』とあり、イエスさまがパリサイ人に向けた『怒り』がはっきりと記録されている。マルコの福音書はその時の主の様子を目撃したペテロの証言を受けて書かれており、並行記事であるマタイの福音書、ルカの福音書が触れなかったイエスの人間的感情に触れている。何に怒られたかと言うと、パリサイ人たちが安息日の遵守という宗教化した形式に支配され、目の前にいる片手のなえた人を救おうとされるいのちの与え主イエスさまのみわざを受け入れようとしなかったからである。その怒りはもちろん個人的な憎しみではなく、彼らの心のかたくなさを悲しむ怒りだったに違いない。『聖書註解』KGK825頁参照。)
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