良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。(マルコ4・20)
蒔かれた種は一粒もそのままではいない。腐ってしまうかあるいは実を結ぶかである。実を結ばないで生きている種というものは、いったん蒔かれた以上はあり得ないのである。私たちの信仰がもし停頓しているとすれば、それは正しく土の中に入らず、まだ路上に横たわっているのに違いない。いつサタンの食物となってしまうかも知れない。
少しずつでも生長して行くならば、農夫であり給う天の父は良き実を結ばせんために日や雨や草取りや肥料やそのほか種々の世話をして下さるのである。主イエスは農家のお生まれではなかったが、この結実の有様を『三十倍、六十倍、百倍』と言い給うたのを見ると麦の穂を手にとってその粒の数を数えて見られた経験があるにちがいない。
麦は普通百粒が普通もっともよい結実である。『あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています』(マタイ10・30)とのみことばを思い出されて何となく嬉しい。
祈祷
主よ、実を結ぶこと少なき私をもあわれんでください。願わくは、あなたの蒔いてくださったこの成長の鈍い種をもあわれんでくださって雨を注ぎ日を照らして養い育てて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著58頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。以下、昨日に引き続き、『受肉者イエス』から引用する。引用頁は同書363〜364頁からである。題して『善き地』
第四は主が肥沃な土地に擬せらるる種類の聴衆である。『みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。』ここに注意すべきは、その優秀の土質に程度の相違のあることである。彼らは皆実を結んだけれども、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍であった。
聖クリソストムは曰く『もし地は肥沃にして蒔く者にも種にも相違なくんば、何故にここに百倍、かしこに六十倍、またそこに三十倍を結べるか。その相違は地質によるものにして、肥沃の土地にもなおこの著しき階梯あり。非難を受くべきものは、種子にあらず、農夫にあらず、ただ地質のみ。さらに慈恵にあふるる著しきは、神は決して優秀なるもの一種のみを要求し給わざるにあり、第一を受納し、第二を拒絶せず、第三もまたゆるして収めらるるなり』と。
信者はその力量において、天びんにおいて、ことごとく同一でない。しかもその才能のいかんにかかわらず、勤勉の腕と熱烈なる精神とをもって己にゆだねられた責任を忠実に尽くしつつ、己が天賦を発揮すべきである。天国においては聖ヨハネや、聖パウロの種類のみならず、その他隠れたる地位において主を愛してこれに奉仕する名もなき無数の人物のこれにあずかる余地があるのである。)
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