「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて彼らにこう言われた 。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2・16〜17)
有名なみことばである。これほど私どもにとってありがたい言葉はあるまい。マタイ伝にもマルコ伝にも単に「罪人を招くために来た」とあるが、ルカ伝には「罪人を招いて、悔い改めさすために来た」とある。
この席に列したペテロ系のマルコ伝、同じく列席者のレビから出たマタイ伝の方が、パウロ系のルカ伝よりもこの記事は正確と見てよかろう。ルカは少しく後の人であるから「悔改」の二字を入れて誤解のないように注意したのであろうが、私には主が無条件に「招き給う」ことが一層ありがたく感じられる。
しかも招いて教誨するようなこともなく、招いて先ず食を共にされたことが誠にありがたい。この寛大な愛こそ私の如きひねくれた者もついには悔い改めずにはいられないようにさせるのである※。
祈祷
罪人を招こうとして来てくださった主よ、あなたは実に私をもそのまま招いてくださることを感謝申し上げます。願わくは、私を招いて先ずあなたと共に食することを学ばせてください。アーメン
クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』50頁)
律法学者やパリサイ人たちは、・・・さげすみをもって弟子たちに話しかける。どうしてこんなことがあってよいだろうか。人はその友によってはかられる。罪人たちの友ならば、彼自身一人の罪人にちがいないと。
しかし、主はすぐさまそれに答えられる。パリサイ人たちは、そのイエスを好まない。彼らの自己満足は、自分たちは健康で、丈夫で聖なる者だと思わせている。しかし、病める者、罪ある者、悲しむ者は、主がそれらの魂にもたらされる癒しの愛の祝福からはずされることはないのである。主が実際に罪人たちの真の友であることは、あなたやわたしにとって何と素晴らしい祝福だろうか。
(※ある時、イエスさまを友人にご紹介しようとされた方が、冒頭のみことばの類似個所のうち、ルカ伝を紹介しようとも思われたが、やはり『悔い改め』の言葉がその友人のつまずきとならないだろうかと考え、マルコ伝のこの言葉を送ったと言われた。『主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。』詩篇130・3〜4。ルカ伝が間違っているわけではない。聖書のみことばの適用はそれぞれにその時と場合があるのだろう。)
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