2022年2月12日土曜日

主の御用をせし小舟

イエスは大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。(マルコ3・9、10)

 いつの時代にも肉体の苦痛から救われようとする熱心な人は多い。が、霊魂の救いを求める人は少ない。イエスほどのお方を眼前に見ても、その人格に触れようとする者はなくして、その肉体に触れようとする者は実に多かった。

 もちろん主は人間の肉体の悩みにも大いなる同情を持たれる。だから多くの人をいやされた。けれども肉は末であり、霊は本であることを忘れてはならぬ。押し迫る群衆から逃れて小舟に乗られたのは、舟の上から岸に立っている人々を教えるためであった。

 群衆はパンを求めて石を与えられ、生きた解決を求めて空しい理屈を聞かされると失望したかも知れない。今日の私たちもうっかりするとこれらの群衆と同じところに低回(うろうろ)する。

祈祷

主イエスよ、私たちがパンの問題を真実に解決できるために、先ずパンの問題から私たちを解放してください。私たちが肉の諸問題を解決できるために、肉の諸問題を超越させてください。先ず小舟に乗ってあなたに従わせてください。アーメン

(以上は青木澄十郎『マルコ伝霊解』からの引用である。青木氏は、この時主のお心がどこにあったかに的をしぼって考えられた。なお、クレッツマンの黙想は以下の通りで、マルコ3・7〜8を踏まえたものとなっている。併せて読みたいものだ。

 主が、その弟子たちとガリラヤの海辺に退かれた時、多くの群衆は、ガリラヤ近辺ばかりでなく、ユダヤ、エルサレム、また南に遠く離れたイドマヤや、ヨルダン東側の丘陵地や、北方のツロとシドンなどの大都会からでさえも、つき従って来たのである。彼の名は彼らをして、一大群衆と化せしめていた。

 海辺に立たれていた主は、もし彼が弟子たちに、いのちのことばを群衆全部が聞けるために、小舟を用意しておくようにと話されていなかったならば、海の中に押し入れられていたかも知れない。特にその中でも目立ったのは、主にいやされた人々の中で、けがれた霊になやまされていた人々が、あわれな体をもって彼が神の子であることを口走りながら、彼に迫って来ることだった。主はこのやたらな告白を、快く思われなかったので、それをとめねばならなかったのである。)

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