群れなして 餌求め鴨 急ぎ来る |
それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や 罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。(マルコ2・15)
いづれの国でも大抵上中下の三階級から成り立っているが、その他に第四階級とでも言うべき捨てられた階級がある。徳川時代にいわゆる非人とか穢多とか呼ばれ社会の埒外に置かれ普通の人間として取り扱われなかったものがあった。『取税人や 罪人』とはそんな階級を指すのだと思えば大した間違いはない。
福音書に見える『罪人』を前科者と考えたりまたは特別の悪人と考えたりしては誤る。もちろんかかる階級の人は道徳の標準も低く、社会に対する反抗心も多いから、従って一般の社会から見てヨリ悪い人のように見える。
イエスはこれらの人に対しても少しの城壁も設けられなかったのである。レビがマタイとなって十二弟子の中に加えられたとき、他の十一人が苦情を持ち出さなかったのは全くイエスの大なる人格が一視同仁、何人も包含する偉大なる力あることを示すものである。
祈祷
主イエスよ。あなたは親しいお弟子たちの中にレビをお加えなさったことを感謝申し上げます。いかなる社会のすたれ者もあなたの手によって救われないことはないのを感謝申し上げます。
クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』49頁)
やがてレビの家は。多くの者がむらがり集まる場所となる。多分、この時の部屋は、レビや彼の仲間である、罪人たちの集まり場所であったのだろう。彼の友だちは今や、レビが彼らとは違った他の客、すなわち別の階級に属する有名なラビ、ナザレのイエスを迎えているのを見て、驚いたことに違いない。彼らがイエスと、またイエスが彼らと何の関わりがあるというのだろうか。主の弟子たちでさえも、心おだやかならぬものがあったかも知れない。
しかし、見よ、今彼らの仲間の一人の心を癒したこの偉大で聖なる人の中には、何らの尊大さも、己れひとり高しとする態度も見受けられない。彼は打ち解けた友となって、彼らと飲み食いを共にする。レビがそれまでに接したどの友人よりも優れているこのかたとともにある生活が、どんな金造りや、乱痴気騒ぎよりも、はるかに素晴らしいものだということを、彼らも悟ることができただろう。
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