2022年2月24日木曜日

真理は真清水のごとく主から流れ出る

さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。(マルコ4・10)

 何という美しい絵画であろう。騒がしく忙しかった一日も終わって、物珍しくイエスを見に来た群衆は去って往った。が、イエスにひきつけられて去りかねた少数の者は十二弟子とともにイエスの宿に着いて来てイエスのまわりに輪をつくって、奥深いたとえの意義を問うている。

 このたとえの説明がすむと続いて第21節に『寝台の下のあかり』のたとえを語られているところを見ると夜は次第にふけて、寝につくべき時が近づいたことが察せられる。イエスは今『良い地に落ちた種』である少数の弟子らと親しく神の国の奥義を語り給うのである。

 このようにして静かに教えられたペテロやヨハネがついに神の畑に大きな収穫をする人々となったのである。ああ私もこの一夜主とともに居りたかった。

祈祷

夜は更けぬ。主よ、今宵も私と共に宿り給え。夢の中にもあなたの御声をきかせ、静かに語り出で給う天国の奥義を私にもさとらせてください。アーメン

 (『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著55頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。以下、クレッツマンの黙想を『聖書の黙想』68頁から引用する。

 マルコはつづいて、この後、主が十二弟子や、他の弟子たちとだけいた時のことについて語っている。弟子たちはこのたとえ話を特に心にとめていたにちがいない。彼らは、その主を正しく理解し、このたとえが教える意味を完全に知りたいと願っていた。私たちが聞いた説教や、読んだ聖書の箇所を思い返して、私たちがそれを聞いた時、読んだ時以上の深い意味をつかむことはすばらしいことである。) 

0 件のコメント:

コメントを投稿