もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。(マルコ3・24〜25)
争うことは一番いけないことである。サタンの国でさえお互いに争ったら立ち行かないというではないか。まして神の国に属する私どもが互いに争ったらどうなるか。自己を押し立てて行こうとすると知らぬままに争いが生ずる。
意見の相違や、考え方の相違はなくてはならぬものである。これあるがために互いの短所を補うことができる。ただ自分というものを買いかぶることは多くの無用な争いの動機となる。自分と異なった点の多い人を見たら、先ずその人の中に自己の不足を補うものを見出すように心がけるべきであろう。無能と思ったりすることは双方のために益とはならない。
すべての人を聖人賢人と見るというわけには行くまいけれど、とにかく自分と異なった性格思想の人を見たら、先ずその人から学ぶ心持ちでありたい。
祈祷
神様、自分を押し立てて他を見下げ、自分と異なった人を悪く見やすい私をあわれんでください。どうか自分の知らない世界の持ち主として彼らを先ず尊敬することを教えて下さい。アーメン
(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著49頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。聖書の言葉はいかようにも説明できるのだと、青木氏のこの文章を読み、思わされる。このままでは処世訓に堕してしまう。この引用箇所は、そもそも、エルサレムからわざわざ降ってきた律法学者が、イエスさまのみわざを否定するために、『彼は、ベルゼベルにとりつかれている』『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。』と言ったことに、イエスさまが反論されたことばの一部であることを覚えたい。『受肉者イエス上巻』デービッド・スミス著日高善一訳342頁の文章をそのまま抜粋引用する。
奸策のその耳に入るや、イエスはたちまちこれを知って、その卑劣を憤りつつ、完膚なきまでに駁論を浴びせられた。先ず彼らのことばの荒唐無稽なるを叱責し、格言ほどに理義明白であって、不和は、国家にしても、都市にしても、家庭にしてもその滅亡の基にして、もし悪魔が悪魔を追いださば、自ら己を傷うもので、その国の立つ能わざるべきを論じ、彼らのことばをそのまま彼らに返却せられた。
ユダヤの降魔の法は如何。『もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らは誰によって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。』さらにサタンと共同したとの推論が荒唐無稽なりとすればイエスの鬼を追い出されたのは神の霊にのみよらねばならないことになり、従って神の王国はすでに彼らの間に現れたこととなるのである。すなわちイエスはメシやでなければならぬ。)
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