彼は手を伸ばした。すると、その手が元どおりになった。そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。(マルコ3・5、6)
人の心というものは不思議にもさまざまに働くものである。これほどの力を見、これほどの人格を目の前に見ながら、イエスを敬う心も起さず、かえって葬り去ろうと謀るとは実に思いも寄らぬ考え方であるように私どもには感ぜられる。
憎む心と高ぶる心とは実に恐ろしいものである。これらは心の目を曇らせる。判断の力を奪ってしまう。憎いと思うと何もかも悪く見える。心を低く持ちさえすれば憎む心は起こらない。もちろん、悪をば憎むけれども人を憎む心は起こらない。
パリサイ人たちは自分たちはエライ人であり、イエスは田舎者であるとの高ぶりからイエスに対する憎しみが生じ、この憎しみが彼らの判断を誤らせ、安息日を犯すようなイエスを葬り去るのは正当なことだと考えるようになった。私どもも自分の好まぬ人、嫌いな人、性格の異なった人、意見の違った人などに対しては特別謙遜な心で同情の眼をもって見なければ誤解しやすいことを忘れてはならない。
祈祷
主よ、願わくは私に人を尊く見る眼を与えてください。自分と異なる人、理解し難い人を見るとき、謙遜と同情の眼をもって見ることができるようにしてください。アーメン
(以上はこれまでとおり青木『マルコ伝霊解』からの引用であるが、『聖書註解』KGKはこの節に対して次のような注釈を加えている。「この男のいやしがイエスと宗教指導者たちの間の決定的なみぞとなった。道の分かれ目であった。この対立は非常に激しく、熱烈な民族主義者パリサイ人は、その宿敵、一種の売国奴だったヘロデ党の者と組んでまで、イエスを葬り去ろうと考えた。」「憎しみ」から発展する「殺意」が人を滅ぼす。昨今の新聞紙上を騒がせている、陰惨な殺人事件、はたまたウクライナ情勢もまた、その心の暴走に歯止めがきかない今も続く人間にとって最大の問題である「罪」のなせるわざだ。その人間の罪をご自身が一身に負い、十字架上へと進まれるのがイエスだ。)
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