イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。(マルコ3・6〜7)
イエスは人間の弱さを知っている。人は一時の腹立ちというような時にはどんなことをしでかすか知れぬものであり、しかも冷静に立ち返った時はこのことを悔いるものであることを知っておられる。パリサイ人に対して言うべきことは言い、教えるべきことは教える。
しかし、彼らが平静にこれを受けないで反対の方向に進むのをご覧になった時、先ずその前を退かれた。これは臆したためではなく、彼らに反省の機会を与えるためであったろう。ついには来るべき大衝突をご存知ではあったろうが、できるだけこれを避け給うところに主の大きな愛が見えるではないか。主はパリサイ人といえども、これを救わんとして細心の注意を払い給うたのではないかと思われてゆかしい。
祈祷
主イエスよ、願わくは、私にも『湖のほうに退く』ことができる寛弘な心を与えてください。私を怒る者の前からしばらく退いて静かに彼のために祈る静けさを私に与えてください。アーメン
(「イエスが湖の方へと退かれた」のを青木氏は上述のようにイエスの愛のあらわれと見られたが、別の見方もあるようだ。『聖書註解』KGKは「危険が差し迫っていたので、イエスは弟子たちとガリラヤ湖へ退かれた。彼は決してご自身を不必要に危険にさらすことはされなかった。彼の任務に照らして、それは正しく当然であった」と言っている。このような沈着冷静な愛ある人イエスは今なお、私たちの内側に働いて事をなさしめられるお方である。
その一つの証とも言うべきものが、たまたま2月9日の朝日ニュースメールで紹介されていた。「裁判長から受刑者への遺言 いつかこの腕時計を・・・」という『あさま山荘事件』50年を記念する題名の記事がそれだ。その冒頭を飾っていた写真は一冊の聖書と腕時計であった。そしてその開かれた聖書の表紙扉には次のように裁判長の石丸氏の筆跡で墨書されていた。
1997年10月25日
石丸俊彦
愛することのない者は神を知りません。
神は愛だからです。
ヨハネの手紙1 4の8
吉野雅邦学兄
朝日の記事によると、吉野受刑者は、無期懲役を言い渡した故石丸裁判官から、このような聖書を受け取るだけでなく愛用の品を託され、その遺品を身につける「約束の日」を待ち続けており、その品が石丸氏愛用の腕時計であるということだった。この「約束の日」とは「仮釈放」の日だ。今もそれを求めて奔走しておられる別の方々が同時に紹介されていた。一方、同日の毎日ニュースメールは「『家族にも言うなよ』死刑執行に立ち会った元刑務官の証言」と全く別の話だが、刑執行にまつわる話が載っていた。これも考えさせられる内容であった。私自身もかつて「人の救いとバイブル」という題名で本ブログに投稿したことがある。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/02/blog-post_19.html)
0 件のコメント:
コメントを投稿