2022年2月26日土曜日

みことばを蒔く人

種蒔く人は、みことばを蒔くのです。(マルコ4・14)

 『みことば』とは言うまでもなく神の国の福音である。主イエスは惜しみなくこれを蒔かれる。これを路傍に蒔き、礫地に蒔き、茨の中に蒔かれた。イエスの御口から出る尊いご真理がまことに安価にガリラヤの湖辺に蒔き散らされた。

 御唇から銀鈴のごとくに響き出る混じりなき天国の福音、神の国の奥義をそのままに聞くことができたなら生命も資産も少しも惜しくないと思う者は幾人あるかも知れまい。しかも主はこれを聞く人にも聞かぬ人にも惜し気なく施された。

 三千年間の種蒔きに『礫地』や『茨』の中に失われてしまったみことばの浪費を思うと実に不経済なように感ずる。が、実はこれこそ神の大愛の示すものであるまいか。正しからぬ者が不義を行うためにさえ、日を照らし雨を降らせ給うのと同じ寛容で主はサタンに食われるためにでも惜しみなく種を蒔き続け給うたのである。

祈祷

主イエスよ、あなたは私の心が礫地であるにもかかわらず、朝に種を蒔き夕べには水を注いでくださるのですね。茨(いばら)が育ってあなたに対する信仰をふさぐときもあなたは、御肉に血を流して私の心を切り開いて下さるのですね。あなたの恵みは大きく感謝します。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著57頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。今日の青木さんの霊解は引用者としてはいくつか疑問がある。「三千年間の種蒔きに」と述べられているが、創世記から新約聖書の書かれる年代を言っておられるのであろうか。一方で、イエスさまの種蒔きの趣旨を逸脱しておられるのでないかと、掲載を随分迷った。

 ところが、『受肉者イエス』というデービッド・スミスというスコットランド人の書かれた名著を大正11年に日高善一さんが訳された本がある。念のため、この本を調べたら以下のことが書いてあった。題して『伝道の結果よりの判断』(同書上巻364〜365頁より引用)

 この聴衆の例は人生より描写せられたるものであった。彼らは皆主の親しく実見せられたところより来たもので、事実のこのたとえは一ヶ年のガリラヤ伝道の結果より摘出せられたものに外ならぬ。皮層の観察をもってすれば、その成功は顕著であるように見えた。

 全国が騒ぎ立ったのであって、ただにガリラヤのみならず、ユダヤ否サイロビニケやベリヤの異教の地方の人民まで(マルコ3・7、8)イエスの不可思議な事業を目撃し、またその恩寵深きみことばを聞かんがために、カペナウムに殺到して来たけれど、イエスはこの熱狂の価値の極めて乏しきをくわしく知っておられた。その大多数は聞くがままに忘れ去る傍観的の聴衆であって、またその大多数はイエスをもってメシヤと認め、赫赫たる権威を握り、天下に号令せらるるも近きにありと望みつつこれに、随従し、その弟子と自ら名乗ったものであった。

 イエスは彼らが早晩その誤解を悟り、渇仰せる王位に非ずして十字架を見るに至るや、必ず離れ去るべきを知り、その熱狂的人望の真の価値を認めておられた。この群衆の喝采は日ならず罵言と変じ、使徒たちの信仰すらも、頼むに足らざる時期の到来すべきを予知せられた。その一ヶ年の労役の結果を計上して『夥しく蒔きて、僅少なる収穫』に過ぎずとの断案をくだされたのであった。しかもイエスは決して苦痛と思し召さないのであった。その労役は無益ではない。その自ら穫べきを穫られたのであって、満足せらるるところであった。)

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