イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって 、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。(マルコ2・14)
イエスとレビとは個人として全く未知の人であったか、幾分知り合いであったかは不明であるが、群衆の一人としてのレビはイエスを知っていたものに相違ない。呼ばれたときに直ぐついて行ったところを見ると、イエスの教えを度々聞いてその心を動かされていたものと思われる。
『「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。』とは実に率直なレビの態度をそのまま現しているように思う。現在の収益多い職業に少しも恋着した様子がない。従いたかったけれども自分の軽蔑せられている地位を考えて遠慮していたように思える。
私の信仰生活に最も深い印象となっているのは私がまだ十歳くらいの時、東京芝区の日曜学校に出席していたが※、ミス・ヤングマンと言う宣教師が本国へ帰るお別れの言葉として『わたしについて来なさい。』との語を大声で暗唱させられたことである。イエスに従うほど大切なことは他にない。
祈祷
主イエスよ。願わくは、私にレビのような従順さをお与えください。あなたがお呼びになるとき、一切万事を忘れて、飛び立つ歓喜をもってあなたに従う心をお与えください。アーメン
クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』49ページより)
道を行かれるイエスは、のちにマタイと呼ばれる卑しめられていた取税人レビが、収税所に座っているのに目をとめられた。そこを通る商人や、他の人々は道に陣取っている収税所に、ローマ政府のための、呪わしい税金を払わねばならなかったのである。
主のみことばの『わたしについて来なさい。』は、この男をして、その利得の多い職業を、困難でしかも自己犠牲的な生活のためになげうたしめるに十分であった。しかも、この選択をなした者は誰一人としてそのことを後悔しはしないのである。
(※このように、青木さんはしばしば、幼い頃の日曜学校の思い出を語る。それは単なる思い出でなく、今も、すなわち老境に入った青木さんを動かしている主の愛・摂理に対する感謝であることがわかる。まさしくクレッツマンが指摘する通りである。私自身はやはり10歳ごろ、宣教師が中仙道https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/06/blog-post_9236.htmlを「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずる者は誰もみな救われん」と歌いながら、行進され、そのあとを遊び仲間と一緒に、半ば興味本位ではあったが、ゾロゾロついて行ったことを懐かしく思い出す。考えてみれば、その時が私の耳に直接入って来た最初の福音であった。その福音の意味を知るのはその後17年を経た27歳になってからだった。)
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