2022年2月23日水曜日

たとえの価値

イエスはたとえによって多くのことを教えられた。・・・「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔に出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。・・・また別の種が土の薄い岩地に落ちた。・・・」(マルコ・2〜5)

 ガリラヤ付近の土地は実にこのたとえソックリの土質である。礫地(れきち)があり、茨(いばら)がある。が、イエスはただ土地だけを眺めてたとえを語られたのではない。イエスの前にいる群衆の心が全くそれと同じであるのを見て、その共通点を指摘したのである。

 たとえにもいろいろあるが、イエスのたとえはイソップ物語や桃太郎の話のように、鳥がものを言ったり、木が歩いたりすするような架空(かくう)な話ではない。すなわち人間が自分の思想を無理に鳥や木に言わせるのではない。自然がおのづから語っていることをつかみ出して示し給うのである。だから真に迫ってくる。

 人の心の奥に徹する。つまり『聞く耳ある者』には聞き得る自然界の言語を翻訳して聞かせ給うのである。かくのごとく自然の声に聞けとの見本である。

祈祷

主イエスよ、私たちの霊の衷心(ちゅうしん)にあって語られる神秘な聖霊の声を静かに聴くと同時に、自然界や人事界の中にあって、昔のようにたとえをもって語ってくださるあなたの説話に耳を傾ける知恵をお与えください。

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著54頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。以下、クレッツマンの黙想を『聖書の黙想』71頁から引用する。

 イエスのわかりやすいたとえ話も、主の敵たちにとっては、ただ神秘な言葉にしか聞こえなくなるほど、彼らが心をますます固く閉じてゆくにつれて、主はみことばを喜んで聞き、学ぼうとする彼の弟子たちに、より多く心をよせられたことは明白である。
 このことのために、主は、忙しい日の合間をぬって、さらに多くのたとえを語られていった。その中のいくつかが、幸いに、わたしたちのために書きとどめられている。

なお、『十二使徒の訓練』A.Bブルース著上巻91頁には「たとえ」について注目すべき文章があるので、あわせて紹介しておく。

 たとえを用いて教えることは特に新しいことではなかったが、イエスのたとえによって表明された真理は全く新しいものであった。それは神の国の永遠の真理であったが、イエスの時代まで知られずに隠されていた。
 地上のものは天上のものを象徴するのに適していた。しかし、偉大な教師〈イエス〉が現れるまで、誰も両者のつながりーー地上のものが天上のものの鏡となり、誰の目にもわかるように神の深い真理を示していることーーには考え及ばなかった。世界の創造からリンゴは地上に落ちていたが、アイザック・ニュートンがリンゴが落ちるのと天体の公転との結びつきを考えつくまで、誰もそのことに気づかなかったようなものである。) 

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