ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」(マルコ2・23)
餓えた者が、畑にある麦を摘んで食しても、盗賊とならないのは、さすがモーセの作った美しい法律である(※)。しかるにパリサイ人がこれを見て安息日を犯すものとして咎めたのは如何に聖書の文字を知って精神を解せぬ人たちであるかを証している。
同情の心なき宗教はいくら聖書の文字に通じていても、その精神を去ることいよいよ遠い。それはとにかくとして、イエスはお弟子らがその伝道旅行において度々餓えたり渇いたりなさったことが窺われてまことにすまない心地がする。弟子たちもまたこの貧しい先生の跡に従順について歩いたのは誠に美しいものがあると思う。
主イエスは無知でなした弟子らの自然の行動を弁護し、かつこの機会において安息日に関する新解釈を与えて『安息日は人間のために設けられたのです』と喝破して新しい意義を古い形式の中に吹き込まれたのもまた実に嬉しい事実である。
祈祷
主よ。安息日にもせよ安息日にならざるにもせよあなたはつねに『人間のために』働いてくださることを感謝申し上げます。あなたは日夜私たちのために良い賜物を与えようと、あるいは餓えあるいは渇いてくださることを感謝申し上げます。アーメン
(※引用者註:申命記23:25「隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない」とある。クレッツマンの黙想も素晴らしいものがあるが、ほぼ青木氏と同じなので、かえって煩雑になるので今回は見送った。それにしてもパリサイ人のイエスさまへの言いがかりは尽きることがない。しかし、イエスさまがこれに対して返す刀で何と答えられたか、二つのことを明らかにされている。詳しくはマルコ2・25〜28を参照いただきたい。)
0 件のコメント:
コメントを投稿