ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」(マルコ2・18)
青木澄十郎の霊解(『マルコ伝』35頁)
古来真剣な宗教家はいずれの宗教を問わず難行苦行をする。ひとりキリスト教のみ安逸の宗教であろうか。私は今日のクリスチャンがあまりにラクすぎると思う。一週一回教会堂に出席するだけの人が多いようである。これはパリサイ人にも劣ったずるけ方である。
パリサイ人は形式だけにしろ一週間に二度も断食して肉体を苦しめた※。もちろんそれは神の前にでなく人の前の断食であったであろう。イザヤが『あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない』(イザヤ58・4)と嘆息した通りである。
しかし私どもは『いと高き所に届く断食』をする必要はないか。肉体は神の宮であるから大切にせねばならぬ。けれども、時には肉体を苦しめ肉体に打ち勝つ修行をしないと、宗教もその剛健さを失う。
祈祷
主よ、あなたは日々己に克って十字架を負えと命じなさいましたが、私たちは肉に負け、いたずらに安逸をむさぼり、十字架を負うことを嫌います。願わくは、私に己が肉体を撃ってこれを服従させる勇気をお与えください。アーメン
クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』50頁)
これらのことがら(引用者註:イエスさまが『罪人を招くために来た』と言われ、パリサイ人の偽善をあばかれたこと)は、他の言いがかりを惹き起こした。その敵たちは、実際には彼らは、バプテスマのヨハネの悔い改めの叫びに耳を貸していなかったにもかかわらず、唐突に自分たちがヨハネの弟子たちと少しばかり似ている点に気づくのである。
すなわちそれは、人間の手になった断食の規則をきびしく守りつつ、悲しみつつ生きる者となるという、きよさに対する誤った熱心さである。しかし長く待ち望まれた花婿としてのメシヤが、今ここに、彼らの中にいるということは、むしろ祝いの時であり、喜びのみなもとではなかろうか。
(※引用者註:この青木さんの文章は、ルカ18・12を念頭においての表現だろう。このようにイエスさまがたとえで用いられたようにそれが当時のパリサイ人の実際であった。それにくらべて弟子たちの態度は全く異なる。青木さんの文章より、クレッツマンの文章を味わいたい。)
0 件のコメント:
コメントを投稿