手折れても よみがえりたり 紅梅の いのち鮮やか 色香ただよう |
イエスは彼らに言われた。。「花婿が自分たちといっしょにいる間、・・・断食できるでしょうか。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。(マルコ2・19〜20)
青木澄十郎の霊解(『マルコ伝』36頁)
断食と言ったような行為は心の中から湧いて出づべきものである。弟子たちは今イエスとともにあって歓喜に酔うている。花婿を見出したような歓喜を味わっている。
しかしペテロにせよ、ヨハネにせよ主が十字架につき給うた後は精神的にも肉体的にも普通の断食以上のさまざまの断食に身を苦しめた。
私たちには主イエスとともにあることによって彼らのように大きな歓喜もなければ、主を見出し得ない時に彼らのような苦痛もない。私たちの宗教生活には婚宴の歓喜もなければ断食の苦しみもないのである。彼らにとってはキリストが生活のすべてであったから、キリストによる歓喜も苦痛も大きかったが、私たちの生活にとってキリストは九牛の一毛にすぎないのではあるまいか。反省したい。
祈祷
主イエスよ、私はあなたがおられない世界にあっても、多くの損失を感じないまでに落ちぶれた生活を続けております。願わくは、あなたにあって私が花婿を見出すことができるように私の心の目を開いてください。アーメンクレッツマンの黙想(『聖書の黙想』51頁)
わたしたちのキリスト教は喜びの信仰であって、ゆううつの信仰ではありえない。そして主は彼らにその花婿が彼らから取り去られて、悲しみの時がやがてやってくるのだと話される。その時、彼らは、再び主を見る日まで嘆き、悲しむにちがいない。
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