2022年2月16日水曜日

イスカリオテ・ユダ

イスカリオテ・ユダ 、このユダがイエスを裏切ったのである。(マルコ3・19)

 イエスはユダヤの生まれだけれども、ガリラヤに育ったからでもあろうが、他の十一人はことごとくガリラヤ人であり、ある者はイエスの親戚でもあった。このユダ一人だけが遠隔のユダヤの人でありながらイエスのお弟子となったのである。

 さればユダの心にはイエスにひきつけられた大きなものがあったに違いない。イエスからご覧になってもやはり『ご自身のお望みになる者』の一人であったのである。しかも大切な会計の任務をもっとも適任者であろうと思われるマタイに授けないで、このユダに与えられたほどに信用の厚かった人である。

 私はイエスがこの人を見損じたと言うのではない。しかしイエスが最初からご自分を売らせるために弟子に加えたとも考えられない。ユダには他の十一人にも見られないものがあったに違いない。まことに惜しい。が、誰でも悪魔に所を得させればかくも堕落し得るものであることだけは忘れたくない(※)。

祈祷

主イエスよ、あなたがかつて教えられたように、私たちをして日々『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください』と祈らせてください。

(『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著47頁より参考引用、題名は引用者が便宜的につけている。※この青木氏の文言は重い。現に使徒1・25には、「ユダは自分のところへ行くために脱落して行きました」と欠けた十二弟子を埋めるべく人選が行われた場で祈られたことばの中に記されている。言うまでもなく、「救い」はいかなることがあろうとも自分のところでなく、主のところに行くことにある。なお、参考までに以下、クレッツマンの黙想を抜粋引用する。

 さて、主は、この群衆の熱狂をよそに、彼の受難と死の時が次第に近づきつつあることを悟っておられた。夜をこめての祈りの中で、天の父の力を乞われた主は、彼の伝道といやしの手助けになろうとして、ついて来たたくさんの者の中から、限られた数の弟子たち、すなわち十二弟子をお立てになった。ここに彼らの名前も残されているが、それらは、世界を、ゆり動かした「凡人」の名前とも言えよう。

 ペテロ〈岩の男〉というほまれある別名を持ったシモン、ゼべダイの二人の子ヤコブとヨハネ、彼らには「雷の子たち」という名もつけられた。ペテロの兄弟アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ〈レビ〉、トマス、アルパヨの子であるもう一人のヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに「地獄の子」といわれるあのあわれなイスカリオテのユダの名が終わりに記されている。マルコは他の福音書記者と同様に、彼については、イエスを裏切ったものとだけ書きそえている。裏切り者としてその名を記されるのは、何たる宿命だろうか。神よ、どうか、私たちの栄えある主、救い主に忠実なるものとして保って下さるように!)

0 件のコメント:

コメントを投稿