|
雲浮かべ 流れる河川 春の音 (2024.3.7) |
今朝は朝から空がどんよりしている。昨日は快晴であった。三、四日前には雪が降った。暖冬気味だった二月もいつの間にか終わり、三月に入ったが、一転して寒くなった。その上、天気は定まらず、一進一退を繰り返しているが、それでも確実に春へと向かっていることを感ずる。庭先の山茶花の花びらをヒヨドリがやってきては喰っていく。それも、私の姿が見えるや、すぐさま飛び去っていく、その身の処しかたは見事である。私の友である鳥諸君のこのような慌ただしい動きが何よりもそれを物語っている。
ほぼ、一月テレビを見なかった。二月八日に誕生した赤ちゃんが我が家に先週の土曜日(三月九日)まで滞在していたからである。ともすると新聞でさえ読む気にならなかった。それだけ家族が赤ちゃんの一挙手一投足に全神経を奪われていたのであろう。この間の母親の労苦は実に大変なものだと思った。オッパイをあげること、オムツの手当て、洗濯と一日中休む間もない。一、二時間ごとに泣く赤ちゃんのお世話は並大抵ではない。しかし、その愛を受けて赤ちゃんはスクスク育っていく。我が家を出る時、体重が3.6キロになっていた。生まれた時は、3キロ前後だった。
この間、私はテレビ・新聞からは遠ざかってしまったが、その代わり旧約聖書の出エジプト記の1章から3章までを繰り返し、繰り返し読んだ。それは言うまでもなく次の記述などに惹かれたからである。
レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三ヶ月の間その子を隠しておいた。(旧約聖書 出エジプト記2:2)
これは当時このイスラエル人であるレビ人夫妻が住んでいた地、それはエジプト王国であったが、その第19王朝のラメセス二世が、在留異国人であるイスラエル人が多産で強かったので、その対策に苦慮して、人減らし政策を実施した。その最後の方法がイスラエル人の赤ちゃんが男の子であったら、ナイル川に投げ込め、要するに「殺せ」という命令であった。その結果、多くのイスラエル人の家族が犠牲になった。
ところが、レビ人夫妻はこの非人道的な命令に従わず、隠した。少なくとも三ヶ月は隠したということだった。さて、我が家に赤ちゃんは誕生して三、四日後にやってきたが、覚悟していたとは言え、「赤ちゃんとは『泣く者』と見たり」であった。四六時中泣いている。これでは周りの人に勘付かれないようにしても、とても無理だなと思った。出エジプト記の文章は続く。
さて、しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。(出エジプト記2:3)
結局、この赤ちゃんは、ナイル川に水浴びに来た、王女に、かごの中の泣き声を知られ、惻隠の情を覚えた彼女によってナイル川から引き上げられる。彼女はこの赤ちゃんに、モーセと名づける。それは「水の中から、私がこの子を引き出したのです」という自負の念に満ちた命名であった。しかし、その背後には歴史を動かす神のご配慮、ご計画があったことを私たちは知らねばなるまい。
果たせるかな、不思議な流れで、産みの母親である女は、王女から乳母として雇われる。どのくらいの年数になったのだろうか、大きくなった時、女は王女に子どもを返す。これ以後子どもは王室の中で暮らす。愛するわが子と別れねばならなくなった女はどんな思いでいたのだろうか。泣いては乳を求める赤ちゃんに、乳房を差し出しては、口にふくませ、平安のうちに静かになる我が家の授乳の姿を見るにつけ、この子どもの母親の気持ちはどんなであったろうかと考えざるを得なかった。いや、我が家だけでなく、すべての人がその母から同じ愛を抱いていることに気づき、敬虔な思いにさせられることしばしであった。
そんなおり、タイミングよく、20年ほど前に購入していて、これまで読んでいなかった酒枝義旗さんの本をひっぱり出し、紐解いたら次のような文章があった。煩を厭わず、写してみる。
葦のしげみの中から拾い上げられた赤ん坊は、パロの娘の子として、生みの母親に預けられることになりました。母親は、もはやエジプト人の探索の眼をおそれてびくびくしなくてもよいのです。彼女は赤ん坊に乳をふくませるごとに、あどけないその顔を見入りながら、この子が救われて今こうして乳を飲んでいることの不思議さを心深く思い返したことでしょう。そうした不思議さの奥に、生ける神様の計り知れぬ顧みの働いていることを思うて、こみ上げる感謝とともに身のひきしまる感に打たれたことと想像されます。それはそのはずです。自分の子供は奇しくも助かったのですが、同じようにヘブル人の家庭に生まれた他の赤ん坊たちは、ナイル川の濁流の中にのまれていったのです。そのことを思うと、自分の赤ん坊の助かったことの喜びと感謝とともに、いたましく死んで行った子供たちとその母親たちへの同情が、切々として胸を覆うたことでしょう。いな、単なる同情ではなく、この赤ん坊だけが助かっていることを、ただ喜んでいるのでは申し訳ない、どうか、この赤ん坊が育って大人になった後は、同胞イスラエルのために、何かしら意義深い奉仕のできる者となるようにとの切なる願いと祈りがささげられたことと思われます。赤ん坊が、母親の乳房から吸う母乳の中には、そうした切々たる思いと祈りがこめられていたのです。
母親や姉の愛護のもとに、幼な子は健やかに育ってゆきました。パロの娘との間に定められた日が、一日一日と近づいて来ます。しがないヘブル人の家庭から、きらびやかなパロの娘の子として育てられることは、たしかに幼な子の将来にとって幸福を意味するにちがいありません。しかし、それは同胞イスラエルを酷使するばかりか、鬼畜のような非道な命令によって、生くるに甲斐なき奴隷の民としているエジプト王の宮廷であります。やむを得なかった事情によるとはいえ、いやしくもレビの家の血筋をひくこの子供が、イスラエルの民の敵であるエジプトの宮廷の人となるのです。幼な子の母の胸は、このことに思い至るごとに、刃をもって切り割かれるような痛みを覚えずにはいられなかったことでしょう。それは、折角わが乳を吸わせて育てたわが子を手離してしまう母親としての悲しみを超えて、彼女の心をしめつけたにちがいありません。
”幼な子よ。お前の生涯は、おまえのものであってはならないぞよ。遠き先祖たちを導きたまいし神よ、今日からパロの宮廷で育てられるこの幼な子の生涯を、イスラエルをかえりみたもう聖なる御旨のあかし人の生涯として導きたまえ”
との祈りこそ、幼な子の母親の心の底からの祈りではなかったでしょうか。「その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。」(出エジプト2:10)という簡単な文字の奥に、モーセの母のこうした切々たる思いと祈りを読みとるのは、聖句の勝手な読み過ぎでしょうか。(『酒枝義旗著作集4 出エジプト記講義』111頁以下より引用)
酒枝さんは、お会いしたこともないが、知人が親しく教えを受けた方であり、ベック兄とも大変深い交流のあった方だと存じ上げていたが、全13巻もある、この著作集も私の書架に眠ったままであった。私が生意気にも、購入しておきながら、紐解かなかったのは私の一方的な偏見によるものであった。この酒枝さんの文章には以前別の単行本『今に至るこそ』所載の「念仏と福音」で読んだことのある酒枝さんのお母さんに対する大変な尊敬の思いが、同時に表れているのではないかと思って読んだ。
モーセが実際どのように歩んで行くか、今後はそのことを聖書から教えられたいと思っている。また、映画『十戒』は一度映画館で観たことがある気がするが、信仰を持つはるか以前、多分、高校時代かに、観たものであり、その内容も覚えていないが、酒枝さんのこの講義ではその点も配慮しながら、しかも実際のエジプト史を背景にし、信仰者としての見識を示され、また時の問題(早稲田における学園紛争、いわゆる全共闘運動)に「教授」として対峙されたであろう所感のようなものが出エジプトの記載を追いながら述べておられるので、大変読み応えがある本である。出エジプト記自体が40章にも達するので、ご著書を読み終わるまでには、まだまだ数日かかると思うが読み終わりたい。
今回、娘夫妻が赤ちゃんを連れて帰ってくるには、正直言って多くの不安があった。恐らく娘夫妻にも不安があったと思う。しかし、今回の挑戦は始まった。始まってみれば、すべて杞憂であり、子どもたちの支援もあり、背後で祈ってくださった方々の祈りがあり、無事に乗り越えられた。何よりも主の顧みがあってのことだと思う。
顧みれば、人生、この先にはどんなことが待ち受けているかはわからない。しかし、決して無駄なことはない。何度も繰り返し、このブログで紹介してきたように、55年前のこの日に交通事故(むち打ち症)に遭ったことは私にとって決定的な福音を受け入れる大きな主のご計画の一つだったと思っている(※)。最後に、忘れないために、二つの聖句(みことば)を書かせていただく。
※ https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html
子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(旧約聖書 箴言23:13〜14)
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(新約聖書 ローマ8:28)