2023年1月9日月曜日

コロナ禍の教会

しもべの手 パン葡萄酒※ 備え居り

 昨日は市川の礼拝に出かけた。日曜日は決まって礼拝をしている。1970年父が交通事故で瀕死の重傷を負っているのに、非人情にも帰らなかった。まさに律法的と言われても仕方がない。父はそんな私のところに最晩年1981年転がり込んできて、私の生活ぶりを見て、その頃だったか、「日曜日は天下御免の『寝て曜日』なのに、おまえはどうして?」と忙しくしている私に哀れみを込めて言っていた。

 私も最初は随分抵抗があった。新米教師としてスタートしている私にとり、土曜日日曜日は息をつける時であるばかりでなく、逆に教材研究に取り組む絶好の時間であり、こんな時間を礼拝のために半日以上も時間を取られるなんて馬鹿げているし、何としてもそんな日曜礼拝のある生活なんて真っ平御免であったはずである・・・。

 ところがどうあろうか、イエス様を信じて以来、と言うより、主に見出されてそのいのちにあずかって以来、不思議と欠かしたことがない。1970年以来ずっと続いている。父が毛呂山の病院で私が知らない間に亡くなったのも私が春日部の教会で礼拝を持っていた時だった。私はこの受け入れ難い父の死については一晩泣き明かしたが、この出来事を主から受けとめることができた。それは心不全で亡くなった父ではあったが、きっとその日私がどこにいるか知っていたはずだ、と思って大いに慰めをいただいたからだ。

 昨日の礼拝も人数にして10数名であっただろうか、Zoom参加者が16名ということであったから3、40名の礼拝者である。往時の多人数の方が主を求めて集まられ活気に満ちた市川集会の姿(春日部集会の兄貴分に当たる集会)を知っている者としてはさびしいものがあった。しかし、主なる神はこのようなコロナ禍の中でも集まる「心」をひとりひとりに備えていてくださるのだと感謝した。

※集会ではぶどう液を用いている。それは一人の強度のアルコール依存症の方の「救い」のために葡萄酒をぶどう液に変えた愛の配慮に始まったことによる。パンと葡萄酒とは私たちの罪の身代わりに十字架につけられたイエス・キリストの裂かれたからだと流された血潮を象徴するもので「聖餐」と言って、毎日曜ごと信者は味わっている。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
            (新約聖書 ローマ人への手紙8章28節)

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