描きたる 白玉椿 きよらかに |
私は手に取らせていただいて、息を呑む思いにさせられた。お茶出しに勤しむ家内をそっちのけに作品の出来栄えを褒めちぎっていた。私はふだんめったに褒めない性質(たち)なのだがこの時ばかりは別だった。私の声を聞いた家内もまた同じ感想だった。
その時、ふっと私の中でお返しに、自らのブログ記事を進呈することを思い至った。早速、本ブログの1/4から1/28の記事をプリントアウトした。今度はその方が我がブログ記事を褒められた。「こういうものが読みたかったのだ」と。
その前後であったであろうが、この時、もう一人近所のご婦人がいらっしゃった。こうしてそれぞれ互いに知己でありながら、コロナ禍もあり、普段遠ざかっていた四人が一堂に会した僥倖(ぎょうこう)に感謝し、絵手帳とブログの記事を話題にしながらその時間はお互いに至福の時間を過ごした(と、思っていた)。
ところが、翌日日曜日の礼拝の後、病に伏せっている一人の方を訪れたときのことである。私はその方の病の実情を直(じか)に知り、その方の病のひどさに圧倒されるばかりで、何も申し上げられず、ただひたすら我が身の無力さに打ちのめされて帰ってきた。
それはどういうことかと言うと、私はこのブログで主イエス様の御力を証することを主眼としているのに、目の前で病で苦しんでいる方に寄り添って、全能の主に向かって、心を合わせて一緒に祈ることもせず、当然とは言え、主の御心をともに確信することもせず、帰ってきてしまったからである。
これでは、このブログは平和裡の単なる遊(すさ)び物にすぎないと言われても仕方がないと思った。そのような時、読者の方から私の自己満足的な文章のあり方を指摘する貴重なご意見をいただいた。これら一連のことは決して偶然とは思われず、私にとっては全部主から来ていることだと今は思わされて感謝している。
※冒頭の絵はその方の作品群の一部である。2023.1.11と日付が明記してあった。なお、一旦ブログに投稿させていただいた1/6「相対する鴨の群れと青鷺」、1/22「一枚のハガキを貫く真実」、1/29「キリスト者の矜持いかにありや」の三篇は非公開にしました。
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(旧約聖書 詩篇139篇23〜24節)
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