2014年5月16日金曜日

とかげは天敵か?

この前、思わず、とかげは家人にとって天敵と書いたが、決して天敵でない。友人とは言いたくないが、敵ではないと言う。何しろとかげは草花に寄って来る様々な虫を獲物に地上から草花を伝いながら這い回っており、ガーデナーにとって得難い味方であるからである。今朝、久しぶりに見るともなく、庭を見ていたら、風もないのに草花が揺れている。そのありかを見てみれば、二三日前に格闘した同類のとかげ君であった。しかも一匹ではない。二匹それぞれちがう草花に足繁く動いていた。庭に降り立ち、とかげ君を探したが、もういなかった。代わりに、草花の様々な芳香がそれぞれ心地よく漂って来た。これは何という魂の「温浴」であろうか。草花をめぐって多くの生き物が群がって来るのもうべなるかなと思いながら室内に戻った。

室内に戻り家人に「とかげは天敵でないね」と念を押したら、案の定「そうだ」と言った。むしろとかげのたまごは小さい時から馴染んでおり畑や庭で始終見たし触ったと言う。問題はそのとかげが室内にいるのが嫌なのだと言う。確かにそれは誰しも気持ちのいいものではない。そこへ行くと、蜂の巣はもはや女王蜂と切り離した存在なので、それを気持ち悪がる心理はわからない。今でも私の小さな書斎に記念として「蜂の巣」を置いているが、家人は決して足を踏み入れない。今や、「蜂の巣」は、我が城に家人の出入りを容易に許さないとんだ「魔除け」になった感じだ。

安倍首相が、集団的自衛権を解釈改憲で押し通すつもりだ。とかげが天敵であるかどうかは場合場合があり、細かな議論が必要だろう。感情論で物申すのでなく、冷静な思索が必要である。首相会見にパネルを持ち出し、説明されるのは結構なことだが、もし起こり得る事態を自己の都合のいいように図示し論理をすりかえてしまうための道具だったら問題だ。とかげが室内に入らないようにしたい。それにもかかわらず、入って来たらどうするか。瞬間湯沸かし器のように当方は恐怖心にあおられて、「自衛」と称して流さずにすんだ血を流してしまった。あとで悔いが残った。一国を預かる首相に今や誰も鈴をつける人がいない。民主主義は選挙至上主義だ。一人一人が覚悟をもって政治社会の構築に向かうべしである。

今朝の朝刊各紙の見出しを参考までに列挙する。

朝日 集団的自衛権行使へ検討
読売 集団的自衛権限定容認へ協議
埼玉 首相「確固たる信念」
JAPANTIMES Panel lists steps for bypassing Article 9
日経 首相「憲法解釈の変更検討」
産経 首相 行使容認へ強い決意
毎日 集団的自衛権 容認を指示
東京 「戦地に国民」への道


新聞は社会の木鐸だと言って育った私にとり、今の新聞は果たして木鐸の役割をしているのか疑問なしとはしない。ちなみに私は東京新聞を講読している。 

その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」(1サムエル8・18〜22)

2014年5月15日木曜日

「次なるもの」はこんな結果に終わりました。

看板右はイチジクだが実が成らない!
さて、三日目には何があらわれたでしょうか。この日は家庭集会の日でした。掃除のため、窓を開けようとした時、何か外から選挙カーのような声が聞こえてきます。今時、選挙でもないのに、不思議だと思いながら、さらに耳を傾け、その音のする方向に目をやると大きな熊蜂でした。ブーンと羽音を立てながら、窓ガラスのレース内に閉じ込められて右往左往しているのでしょう、その羽音だったのです。先頃、補聴器をつけたばかりの私はスワ人の話し声だと一瞬思ったのですが、過去二日間の家人の話があったので少々覚悟はしていましたが、これが第三の侵入者だと合点し、今度は私が大声で家人を呼び出す始末でした。何だかんだと二人で言いながら、無事、熊蜂を外に追い出し、第三の「事件」にはなりませんでした。

家庭集会は前日からその準備が始まっています。その中には様々なことが起こります。今回ももちつき機械がピーピーという音を立てており、スタートボタンが点滅しているので、忙しくしている家人に気を効かせるつもりでスイッチを入れました。ところが家人はよもぎを放り込んでそれからスタートボタンを押して欲しかったようです。何も知らない亭主がボタンを押してしまったからたまりません。そのまま時間が経ち、仕上げ三分前に台所に戻った家人にその旨告げました。家人は慌ててよもぎをどっさり入れ込みました。果たせるかな、10分程度でこねあげる仕組みですから、十分行き届かず、一部はよもぎのかたまりができてしまったようです。それでも人間の手仕事では決して出来ないよもぎもちが七分方できて、十分皆様に味わっていただけたはずです。一時が万事こんな行き違いはしょっちゅうです。でも家人の偉いところはそんな時に決して腹を立てないし、あきらめないで可能な次善策を考えます。大したものです。

鳥は今雌雄蜜月の時です。
そう言えば、昨日の家庭集会では家人のほんの一言がきっかけで、その日思いもかけない方々をベックさんにお訪ねいただいたことです。私もそれらの方々に対してベック兄に訪問していただいたらどうかと漠然と考えていたところ、その日家人は「今日是非行ってもらったらどうだろうか」と言ったのです。そのことがあっと言う間に実現してしまいました。そして訪問を受けた方々には当然何もお知らせすることもできなかったのですが、大変喜ばれました。そして毎月のように来てくださるベックさんは次回は9月3日(水)だということでした。もしこの日を逃せばどうなったことでしょうか。

ご訪問した所の近くの風景です
ご訪問した方のお一人は三年前ベックさんに会いに知人に連れられて行かれたそうですが、この時はベックさんが病気で会えなかったそうです。三年後の昨日、今度はその方が病気になられ、ベックさんの方から訪問し、お交わりが実現しました。そのお交わりに私も同席しましたが、ベックさんが「病気は自分のせいじゃないよ。また病気になってがんばれとみんな言うけれど、がんばれるものじゃないよね。聖書の詩篇を読んで何でもできるイエス様によりたのんでいれば、前向きに生活できるよ」という意味のことを言われ、そのご病人が一々頷いておられたことが印象的でした。

この日の家庭集会では急遽メッセージのCD録音を担当させていただきました。昼の部は問題なかったようですが、夜の部では40分程度の録音時間のうち私の判断ミスで初めの方の6分間ほどが音なしになってしまったようで申しわけなく思います(もっとも万一のため別にiPhoneを活用して録音は収めてありますので完全盤の作成は可能です)。家庭集会は準備、また当日の働き、様々な働きがあります。でもみんな文句を言わず、喜々として行ない参加しておられます。それぞれが車座になって真剣に主イエス様の恵みを分かちあっておられる姿はいつみても麗しいものです。次回はベックさんはお見えになりませんが、6月のいずれかの日に開きたいと思っています。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。(詩篇55・22)

2014年5月13日火曜日

とかげに、蜂に、さて、次なるものは?

赤い薔薇、白い薔薇etc.
昨日、今日と自然の息吹を精一杯かぐことができた。家人はガーデナーである。猫の額ほどの庭に様々な花を咲かせている。そんな家人の大敵は毛虫である。ところが昨日は意外な大敵が現われた。亭主のためにとせっせと十薬を刈り取り、干しにかかっていた。そこまでは順調だった。ところが、あろうことか、テーブル上に広げた十薬の間から一疋のとかげが姿をあらわし、あらわれた。たまったものではない。台所から悲鳴が聞こえてきたのはちょうどその時だった。階下に降りる。家人はビニール片手に勇敢にもつかみ取ろうとしている。ところがとかげはするりと身をかわし、床を這う。追い出すことは難しい。それともいっその事、飢え死にを待つか。そんなことを思うだけでも、家人は先の勇敢もそっちのけで気持ち悪がり、何とかして欲しいと亭主に懇願しきりである。

結局亭主は竹べらを持ち出し、打擲にかかった。初発は不成功であった。とかげの尻尾切りに終わってしまったからである(なるほどこれがいわゆる「とかげの尻尾切り」なのだとへんなところで感心している)。でもそのあとは頭上に竹べらを一度二度振り下ろす。その効果はテキメンであった。家人は思わず拍手の思いだったようだ。しかし汚れた床面をきれいに拭き取ったのは家人だが、始末は亭主にしてくれと言う。見るのも嫌だと言う。生理的な嫌悪感が先立つようだ。亭主は家人の言に従い、室内から外に持ち出し、枯れ葉の下に、肢体をおさめてやった。戦い終わって、互いに男女の違いを思い、その労に感謝する。

ところが、今日は今日でまた家人が騒いでいた。金木犀の小枝に蜂の巣をみつけたからだ。スズメバチのようだった。その黒い胴体の姿を見るだけでこれまた生理的に嫌悪感を覚えたようだ。ところが亭主が不在だったので、恐る恐る室内から遠目に覗き見ながら、裁ちバサミを延長して小枝を切り取り、思い切り良く外の道路に投げ飛ばしたそうだ。その直後亭主は帰って来て、その一部始終を聞くことができた。女王蜂は幸い、巣を取りかかった時にはいなかったが、その後、その巣のところへと戻ってきたそうだ。昨日は「とかげ」で、今日は「蜂」だ、明日は何が起こるかわからないと不安そうに語る。ガーデナーとして庭の点検に事欠かない御仁だが、こんなことに怯えている。そこへ行くと亭主はいい気なもんだ。庭にどんな花が咲こうと無頓着である場合が多い。ましてや家人がこんないのちあふるる生活をしているのに手伝い一つしないからである。

きれいな卵が産みつけられている
外に投げ出した蜂の巣がどんな形をしているか、家人は気持ち悪く見たくもないと言う。亭主はもちろんそんな家内の言をよそに、その蜂の巣を室内に持ち込み仔細に観察する。茶褐色の巣は小枝を利用して巧みにできていた。夜遅く帰って来た娘に二日続きの椿事を話しながら、家人もようやく気持ちも落ち着いたようで、今度は三人して蜂の巣を観察した。観察すればするほど女王蜂一疋がいかに精巧に巣を作り、しかも各部屋にはきれいに卵を産みつけていたかを知り互いに驚嘆の声を上げざるを得なかった。

この地上には小さいものが四つある。しかし、それは知恵者中の知恵者だ。蟻は力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。岩だぬきは強くない種族だが、その巣を岩間に設ける。いなごには王はないが、みな隊を組んで出て行く。やもりは手でつかまえることができるが、王の宮殿にいる。(箴言30・24〜28)

2014年5月8日木曜日

十字架こそ唯一の救いである(下)

「私たちの主キリストのものとなり」賛美の大団円
聖書は言っています。

わたしは主であり、あなたの医者である。

主イエス様がこの地上におられた時、ご自分が偉大なる医者であることを証明してくださいました。盲人が目に見えるようになりました。足なえが歩けるようになりました。死人もよみがえらされました。イエス様の最大の批判者、および敵でさえも目の前で起こった奇跡を否定することはできませんでした。なぜなら彼らはそれらの奇跡をすべて自分の目で本当に見たからです。旧約聖書の中でイザヤ書53章に次のようなことばが記されています。

救い主はわれわれの病をにない、われわれの苦しみをご自身の身に受けた。主イエスの、救い主である主イエス様の傷によって私たちはいやされた。

罪の支払う報酬は、死です。けれどイエス様はこの報酬をご自身の身に受けてくださいました。主イエス様はわれわれの代わりに罰を受けてくださったのです。イエス様は債務を支払ってくださいました。唯一の主なる神が今日提供したいと思っておられることは先ず第一に、富とか健康とかいうものではなく、わがままの赦し、絶えざる喜び、まことの平安です。

それでは、人間はどのようにしてこれらのものを自分のものにすることができるのでしょうか。主イエス様のみもとに行くことによって、主イエス様に自分の債務を告白することによって、そしてまたイエス様を信じ、忠実に従うことによって、です。恐らく私たちの中にはまだ精神的に悩んでいる人や、主なる神との平和を持っていない人や、希望と喜びを持っていない人もいるかもしれない。そのような方々に私は次のような勧めを致したいと思います。どうか次のように祈ってもらいたい。

イエス様、どうかあなたが私の生活を見ておられるように私に私の生活を見させてください。

この祈りは必ず聞き届けられ、あなたは次のことを知るようになります。すなわち、あなたの生活のうちには何一つ主なる神によって受け入れられるものはない。ひとつも、ということです(※)。誰でもは、死、すなわち主なる神との永遠の隔て以外の何ものにも値しないものでしょう。けれども、生けるまことの主なる神はお一人お一人にも主イエス様による永遠の救いと罪の赦しが人間一人一人のために備えられていることを聖書ははっきり言っています。十字架においてイエス様は聖なる神のさばきを受けてくださいました。イエス様はわれわれの身代わりとして死んでくださいました。そして、イエス様の死と、イエス様のよみがえりこそ、罪の赦しの土台また源です。自分のあやまちをイエス様に打ち明ける者は次のことを知ることができるようになります。

すなわち、私のあやまち・わがままは赦されている。イエス様は私をも受け入れてくださった。私は新しいいのちを持つことが許されている、と。

聖書の言っている「罪の赦し」と「薬」とはお互いに似ている点を持っています。 すなわち誰もそれを受け入れることを強制できません。医者はあなたに薬を与えることが出来ますが、それを強制することはできません。それと同じように、主なる神も御子イエス様を通して罪の赦しを与えたいと望んでおられます。けれども、その救いを受け入れ、永遠に言い表わすことのできない栄光のうちにイエス様とともにいるようになるか、あるいは、主なる神なく、望みなく、永遠の時を送らねばならないか、に対して責任を問われています。たいせつなことは、肉体上の健康でもなければ、またはたくさんのお金を持つことでもありません。また、多くの友だちを持ったり、権力や名誉を持つことでもありません。たいせつなことは、人間が債務の重荷から解放されること、そして、主なる神が自分の罪を赦してくださり、自分に永遠のいのちを与えてくださったという確信を持つことです。人間は自分の健康や名誉のためにどれほど測り知れない努力をしているかわからないほどですが、「死後の世界」、「永遠の救い」については何も考えていないとは、何という悲劇でしょうか。

今日、ここにおられるすべての方々が自分の罪と債務を主イエス様に告白し、そしてイエス様は私を受け入れてくださったから、私は救われているということを体験なさることこそ私の祈りです。ただイエス様にだけ私は従いたい、ただイエス様にだけ栄光があるように、という切なる願いを持つ者は大いに祝福され用いられるようになります。

( ※その若き友人は「ゼロからのスタート」をした自分にとって、もはや自らに依り頼むなにものもない、イエス様だけに頼るんですと言った。考えて見れば、上のメッセージ中のわが「生活のうちには何一つ主なる神によって受け入れられるものはない。ひとつも、」ないことを心の底からその友人は言っていたのだ。友人と言ったが、実際はわが息子とも言って良い年齢差が私たちにはある。にもかかわらず、私もまたその友人と同じように、わが詰まらぬ誇り・自我から離れて、ゼロからのスタートをせねばならないことを改めて意識させられた。そこには私たちがともに神の子であり、ともに兄弟であるという不思議な一体感の醸成があった。車の同乗を願ったばかりに、渋滞まじりの高速のドライブはこうして互いに望外の幸せを主イエス様から提供される一時となった。)

2014年5月7日水曜日

十字架こそ唯一の救いである(上)

今日は「喜びへのコンサート」ですけれど、それにちなんだお話を少しばかりいたしたいと思います。主題は「十字架こそ唯一の救いである」というものです。

これから最初にお話することは本当にあった出来事です。私も何年間かスイスという国に住んでいました。あるスイス人は大学生に向かい合っていろいろな話をしていました。彼らは時の経つのを忘れるほどいろいろな話を話し合ったのですが、一段落してあのスイス人は大学の窓の外を指差しました。そこには畑もあれば、牧場もあり、果樹園もあれば、美しい湖もあり、その後ろには雪におおわれた大きな山々が聳えていました。「これはすべて私のものです、これは私の楽園です」とあのスイス人は言いました。彼は大変な金持ちで、欲しいものは何でも持っていました。

二、三年あと同じ訪問客が再び彼のところにやって来ました。畑も牧場も前と同じように、そこにあり、湖も同じように美しく輝いていました。しかし、彼はもはや何一つ役に立つものを持ってはいなかったのです。確かにすべてのものはまだ依然として彼の所有物でした。しかし、彼はつらいことを経験したのです。すなわち、ひとり息子は湖で溺れ死んでしまい、娘は不幸な結婚をし、そして彼自身も恐らくは癌と思われる不治の病に罹っていました。訪問客が彼と話していると、彼の末娘が部屋に入って来て尋ねました。「お父さん、これから町へ買い物に行きますが、何を買ったらいいの。」すると、彼は言いました。「そうだね、ピストルを一つ頼む。もうこれ以上生きたいとは思わない」と。

私たちは皆、次のことを良く知っています。すなわち、この世の富は過ぎ行くものであり、この地上の一生はすぐに消えてなくなる、霞のようなものである。しかし、主なる神の御目的は富やこの世の一生をはるかに越えたものです。主なる神は人間が永遠の幸せであることを望んでおられます。主なる神はそのことを望んでおられるのみならず、主イエス様が主イエス様を通して永遠の幸福への道を開いてくださいました。その道とは取りも直さず、「十字架」です。十字架につけられた主イエス様です。この十字架によって全人類の債務を ご自分の上に、引き受けてくださり、そのために、ご自分のいのちをささげてくださったのです。

スエーデンの首都ストックホルムの墓地には有名なスエーデンの詩人ストリンドベリーが葬られています。その墓石には次のことばが刻まれています。すなわち、「十字架こそ唯一の救い」。この詩人は長い間、主なる神を否定していました。しかし歳をとってから、彼はそれまでの間違った道から立ち戻りました。死の少し前、彼は自分の日記に、次のことを書き記したのです。「私は、神なしに、自分勝手に生きたと思っていたことから、私のすべての不幸がやって来た」ということを、正直に告白せざるを得なかったのです。

生けるまことの神との結びつきを持っていない者を主なる神は祝福することができません。人間が自分自身の力、自分自身の知恵によって本当の幸福を見いだすことができません。イエス様が祝福してくださらなければ、すべてのことはまったく意味のないことであり、むなしいものです。それから、彼は自分の墓石に「 十字架こそ唯一の救い」ということばを刻み込んでくれるように頼みました。

私たちは親しい人に会うと、しばしば、「お元気ですか」と尋ねます。すると、ドイツではしばしばユーモアを交えて次のように答えます。「お陰さまで、元気です。健康でもあり、お金もたくさんあることですし」と。しかし、健康で、お金がたくさんあるということは、ほんとうにたいせつなことなのでしょうか。決してそうではありません。病気でその上貧しい人々。しかし、それにもかかわらず、ほんとうに幸せな人がいます。なぜなら、その人々は主イエス様にあって、永遠の幸福を見出したからです。人間は誰でも死に向かう者です。なぜでしょう。なぜなら、人間は誰でも主なる神の前に過ちを犯す者であるからです。

善を行なう者はいない。ひとりもいない。(詩篇14・3)

と、聖書は言っています。聖書の言っている罪は、生けるまことの神からの隔てです。人間の本来の病は、罪の本質です。この病をいやすためにイエス様は十字架にかかってくださいました。

(5月5日、西軽井沢国際福音センターで開かれた「喜びへのコンサート」で語られたベック兄のメッセージの聞き書きである。私もその場におり、短い話だが感銘を受けた。昨日6日こちらに戻った。帰る際、若き友に願って車に便乗させていただいた。聞き書きをするうちにこの若き友との車内での豊かな交わりの中にメッセージと同質のものがあったことを思い出した。それが何なのか、明日は少しその恵みについて書き加えたい。) 

2014年5月2日金曜日

「永遠の愛」に導かれたお母様(下)

人は死ねばどんな者もすぐ極楽浄土に行く(と考えるか)、あるいは極楽浄土に行くためにお坊さんがお経を読んで、そして一生懸命執り成されます。けれどもそのようなことは一切必要ないのです。また逆にそのようなことをしても私たちのいのちは天の御国に行くものではありません。(そのことは)逆に考えると、(死は)恐ろしいものです。だれもが天の御国に行くことができないのです。イエス様を信じ受け入れる者だけが天の御国に行けるのです。

「(このような考え方は )ものすごく独善性に満ちているのじゃないか、なぜそんなことが言えるのか、あなたは。」とおっしゃるかも知れません。けれども聖書はそのことをはっきり言っているのです。なぜなら聖書は人間の死の根本原因が「罪」であると言っているのです。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6・23)といのちの書である聖書はこのように言っているのです。

人は、自分が気に入らないことがあったりすると腹を立てるものです。でも、いつもそんな時ばかりではありません。サラリーマンとして一生懸命に家族のために犠牲を払って生きて来、人様から何の後ろ指を指されることをした覚えもない(特に法律上の罪を犯したこともない)そんな自分に向かって薮から棒に「罪」と言われても、何だ、と多くの人は思われると思います。でも聖書が言っている、死の原因は罪であるということについて、真剣に考えて見る必要があります。

聖書が私たちに伝える罪は(育ててもらった)子どもが親に向かって、あなたは私の親でないと言うようなものです。親でなくてももし子どもがそのような態度を取るなら、人はとんでもない子どもだと言うに違いありません。しかし、実はこのどうしようもない子どもが私たちで、私たちにそんなことを言われてもじっと我慢している親が神様だとあてはめて考えればいいのではないでしょうか。

神様は天地創造の主です。私たちをそれぞれ母の胎内のうちに育まれた方です。そしてそれこそ太陽、水、空気とその他実に様々な恩恵を与えて、いらっしゃるお方です。私たちが静かに胸に手をあてて考えて見れば、びっくりするような愛のうちに私たちの命を支えておられるのです。まさしく「永遠の愛」をもってわたしはあなたを愛した、わたしはあなたに誠実を尽くし続けたと言われる神様です。

そのお方は、私たちにとって目に見えないお方です。私たちの心のうちには、でもどんな人間にも、霊、その神様に応答する霊が与えられているのです。その証拠に、恐らく先頃韓国の水没する船の中で多くの人が「神様!助けてください」と叫んだのではないでしょうか。何と悲惨なことかと私たちは思います。けれども「助けてください」という祈りは必ず聞かれるのです。問題は私たちが助けてくださる神様を認めない、神様に感謝しない、ちょうど子どもが親に育ててもらったのに、親を親として認めない。それが罪なのです。


「自分の人生だから自分の思うように生きていいじゃないか。何でそんなことを言うのだ。」と人は思うのです。罪というのは自分がいつも主人で、神様の前に頭を下げたくないという心です。そしてその心は偉そうなことを言っている私の心のうちに(つねに)あるんです。そして私だけでなく、ここにいらっしゃるすべての人が同じように神様が信じられないのです。神様に対する不信仰と言う罪をもって人は生まれて来ているんです。その結果が死だと言うのです。死は平等です。なぜならすべての人が罪人ですから。

でも、イエス様は、その、人が自分を認めようとしない罪、神様を認めようとしない罪が、結局、人が生きていく上でどんなに様々な不安や恐怖に陥れ、またその挙げ句、罪を持ったままで死んでしまえば、死後二度と生ける神様と交わることがない、それこそ「地獄の死」という苦しい目にあうかを一番良く知っておられるのです。

そして、父なる神様は、罪人が(悔い改めて)自分のところに帰れるように尊い御一人子であるイエス・キリストをこの地上に人として遣わしてくださったのです。この方はそのような私たちのわがままな罪を、自分の(父なる神から受ける)罰として十字架で全部負わせられたのです。それが2000年前のイエス様の十字架上での死(と三日後の復活の事実)です。


H子お母様はこのイエス様をご自分の救い主として信じられたのです。イエス様を信ずるとは自分のわがままな罪は全部イエス様が背負ってくださった、ありがとうございますという態度を持つことです。その態度を持つ人は罪の支払う報酬である「死」から完全に解き放たれるのです。もはや「死」はその信仰を持つ人を支配しないのです。そうでなく、神の下さる賜物である永遠のいのちをいただき、「いのち」が生き続け、そして死後も支配する生活です。
 
H子お母様は私たちの目には死んだように見えますが、それは肉体が死んだだけです。この確かな信仰を持たれたH子お母様の霊は神様の前で死んでいるのではありません。ここにいる誰よりも幸せなのです。それはもはや病気になることや様々な恐れを持つ状態から解放されているからです。イエス様は
 
神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」(ルカ20・38)
 
と言われましたが、H子お母様は神様の前に生きておられるます。
 
だから私たちは死を忌まわしいものとして恐れる必要はないのです。また別離を悲しむ必要はないのです。神様の前に生きておられる方、誰よりも幸せでいらっしゃるH子お母様と天の御国で会える喜び、それを獲得すべきなのです。

けれども、
お母様と天の御国で再会するためには、私たち自身が神様の前に生きている必要があります。先ほども申しましたけれど、神様の目から見て、人は生きているか死んでいるか、それを神様は見ておられるのです。それは、今生きていても神様を信じない者は、神様の目から見ると、失われた人、死んでいる人なのです。今何も言うことのできないH子お母様は死んでいるように見えますが、その霊はいずれ不死のからだを着せられるまで神様の前で私たちの来るのをイエス様と一緒に待機して待っていてくださる、誰よりも生き生きとして生きておられるのです。

お母様の死は決して終わりではありません。天の御国にいらっしゃる。そのことを私たちは確信したいと思います。お手元のソングシートの賛美の歌詞にありましたが、それはお母様の姿を歌ったものです。日々の歌223番の歌は

水晶のように光る川のほとりでまた会いましょう。神様の川はやさしくやさしく流れ、みんながまた集まるその楽しさよ

と書いています。この歌は聖書の黙示録のみことばが出典となっています。その黙示録のみことばを読んで終わりたいと思います。

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。(黙示22:1〜6)

「信仰」は信心ではありません。正面の掛け軸に書かれているみことば

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11・25)

「よみがえりです。いのちです。」と言われる方(イエス様)をお母様は信じて私たちよりも元気です。私たちの大好きなお母様と会うためにはどうしても(イエス様を信ずる)「信仰」が必要です。      

2014年5月1日木曜日

「永遠の愛」に導かれたお母様(上)

ほぼ一週間の間に親しい方の訃報に接し、今週は月曜日と今日の木曜日と二度葬儀に出席した。月曜日は仏式であった。今日は聖書に基づく葬儀であった。下記はその葬儀で語られたメッセージの聞き書きである。

H姉妹のご逝去はご家族の皆様にとっては大きなショックであったのではないかと思います。死が突然やって来ることを私たちはお母さんの死を通して考えなければなりません。でも、「備えあれば憂いなし」と言います。

確かに私たちの前からお母さんの、今は亡骸はありますけれど、日常(的に)会話するお母さんは私たちの前から奪われたわけですが、そのことだけを目に留めると、本当にショックと同時に心は動揺するばかりであります。しかし、先ほど兄弟が、司会の兄弟、また祈りの兄弟が、祈られましたように、一旦目をお母様が召された天の御国、そしてイエス様ご自身に目を転ずることを通して全く違った見方、というよりもその本当の真実の姿を私たちは知ることができるのであります。

私もお母様とはそれほど深い会話をしたわけではありません。けれどもお母様が集会に集われて、そして礼拝にともに参加した間柄です。そしてお母様が召されてからお母様自身の聖書を通して、私はお母様の新しい姿というのを存分に知ることができたのです。先ほど「備えあれば憂いなし」と申しましたが、お母様はご自身の死に対してはっきりとした聖書、すなわち、いのちの書である神のことばで備えておられたことを私は知りました。自分の息を引き取るあとのことをはっきりと書いておられます。

先ほど兄弟が紹介されましたように70歳の時にイエス様を受け入れて、そして80歳の時に、いつ死んでもいいようにその証を書きとめられたのであります。70歳と言うのは、私は今71歳ですから全く同年齢、その時にお母様はイエス様を信じられました。そのことはお嬢様でいらっしゃる長女のM子姉妹から祈られ、そして福音を聞かれた結果であります。お母様が洗礼を受けられた時にM子姉妹は次のみことばを読まれました。エレミヤ書31章3節です。

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」 

お母様は永遠の愛をもって愛してくださる方、誠実を尽くし続けてくださる神様、イエス様の愛を心の中心に受けとめられました。そして聖書が示す、「死は終わりではない、死んでも生きる道」をご自身の霊で感じておられたのではないでしょうか。聖書に対する書き込み、あるいは様々な傍線の箇所、また集会に出席した時のノートを見せていただいたのですが、メッセンジャーが語られるメッセージ、それは御霊なる神様が人を用いて語られるものでありますけれど、素直にそのとおり記されているのです。

私たちは人の話を聞く時に、本当に素直でしょうか。お母様は70歳を越えて、ご主人とともに集会に出席したその時に、年下の者が話すことをそのまま素直に書きとめておられるのです。書き込みがない場合にも聖書のメッセージをその聖書の中に鉤括弧で記しておかれるのです。私はそれを見て、今日の葬儀は何も必要ないな、と思ったのです。お母様の記されたその聖書のことばを朗読するだけでもう十分私たちの心は満たされるという思いがしました。

なぜならば御霊なる神様ご自身にお母様は心の深いところでやはり支えられていたのです。家族の中ではM子さん、Iさんの知らないお母さん、いや良く知っておられたのでしょうけれど、やはり(人の)霊のことは(神の)霊を通してしかわかりません。たとえ親であろうとも生けるまことの神様に対する心の思いというのは、本当に主ご自身しかわからないのです。けれどもお母様はそのような聖書を私たちに残して下さいました。

それはお母様に誠実を尽くし続けられたのが、「永遠の愛」をもっておられる神様で(あるからで)す。お母様のお名前は本当に(ある意味で)珍しい、姓と名の組み合わせですが、この「永遠の愛」を受け継ぐにふさわしいお名前ではないでしょうか。どのように生きられたか、死んで終わりではない、永遠の生に連なる生き方をイエス様をとおして受けとめられていたのであります。だから今日の葬儀はイエス様にあって召されるということがどんなにすばらしいことか聖書をとおして考えさせていただければ幸いであります。H子お母さんが一番喜んでくださることはそのことであります。

人は息を引き取ります。しかし、イエス様を信じて死ぬ者は聖書には

『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』(黙示14:13)

とはっきり書かれています。息を引き取った瞬間。妹さんのIさんはその時に立ち会われてもっと自分が(お母さんの状態に)気がついていれば良かったのにと自分を責めておられるということを漏れ聞きしましたが、確かにお母様は病院を、いろんな病院を経由して私たちが信じられないような形で早く召されたのですが、お母様は、イエス様のもとに(息を引き取られた瞬間)、行っておられるのです。だから、お母さんのことは何も心配する必要はないのです。問題は遺された私たちの方です。
なぜならばイエス様のところに行かれたお母様は
、地上のすべての生活にまさって、素晴らしい生活、私たちが想像できないような
 

見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示21・3〜4)

と、書いてありますように、そのような「目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」(天の御国に行かれたのです)。本当にこの地上で生きることは私つくづく思うのですが、つらい悲しいことが多くあります。けれどもイエス様にある死者、イエス様を信じている者は決して死が終わりじゃないのです。