2014年5月7日水曜日

十字架こそ唯一の救いである(上)

今日は「喜びへのコンサート」ですけれど、それにちなんだお話を少しばかりいたしたいと思います。主題は「十字架こそ唯一の救いである」というものです。

これから最初にお話することは本当にあった出来事です。私も何年間かスイスという国に住んでいました。あるスイス人は大学生に向かい合っていろいろな話をしていました。彼らは時の経つのを忘れるほどいろいろな話を話し合ったのですが、一段落してあのスイス人は大学の窓の外を指差しました。そこには畑もあれば、牧場もあり、果樹園もあれば、美しい湖もあり、その後ろには雪におおわれた大きな山々が聳えていました。「これはすべて私のものです、これは私の楽園です」とあのスイス人は言いました。彼は大変な金持ちで、欲しいものは何でも持っていました。

二、三年あと同じ訪問客が再び彼のところにやって来ました。畑も牧場も前と同じように、そこにあり、湖も同じように美しく輝いていました。しかし、彼はもはや何一つ役に立つものを持ってはいなかったのです。確かにすべてのものはまだ依然として彼の所有物でした。しかし、彼はつらいことを経験したのです。すなわち、ひとり息子は湖で溺れ死んでしまい、娘は不幸な結婚をし、そして彼自身も恐らくは癌と思われる不治の病に罹っていました。訪問客が彼と話していると、彼の末娘が部屋に入って来て尋ねました。「お父さん、これから町へ買い物に行きますが、何を買ったらいいの。」すると、彼は言いました。「そうだね、ピストルを一つ頼む。もうこれ以上生きたいとは思わない」と。

私たちは皆、次のことを良く知っています。すなわち、この世の富は過ぎ行くものであり、この地上の一生はすぐに消えてなくなる、霞のようなものである。しかし、主なる神の御目的は富やこの世の一生をはるかに越えたものです。主なる神は人間が永遠の幸せであることを望んでおられます。主なる神はそのことを望んでおられるのみならず、主イエス様が主イエス様を通して永遠の幸福への道を開いてくださいました。その道とは取りも直さず、「十字架」です。十字架につけられた主イエス様です。この十字架によって全人類の債務を ご自分の上に、引き受けてくださり、そのために、ご自分のいのちをささげてくださったのです。

スエーデンの首都ストックホルムの墓地には有名なスエーデンの詩人ストリンドベリーが葬られています。その墓石には次のことばが刻まれています。すなわち、「十字架こそ唯一の救い」。この詩人は長い間、主なる神を否定していました。しかし歳をとってから、彼はそれまでの間違った道から立ち戻りました。死の少し前、彼は自分の日記に、次のことを書き記したのです。「私は、神なしに、自分勝手に生きたと思っていたことから、私のすべての不幸がやって来た」ということを、正直に告白せざるを得なかったのです。

生けるまことの神との結びつきを持っていない者を主なる神は祝福することができません。人間が自分自身の力、自分自身の知恵によって本当の幸福を見いだすことができません。イエス様が祝福してくださらなければ、すべてのことはまったく意味のないことであり、むなしいものです。それから、彼は自分の墓石に「 十字架こそ唯一の救い」ということばを刻み込んでくれるように頼みました。

私たちは親しい人に会うと、しばしば、「お元気ですか」と尋ねます。すると、ドイツではしばしばユーモアを交えて次のように答えます。「お陰さまで、元気です。健康でもあり、お金もたくさんあることですし」と。しかし、健康で、お金がたくさんあるということは、ほんとうにたいせつなことなのでしょうか。決してそうではありません。病気でその上貧しい人々。しかし、それにもかかわらず、ほんとうに幸せな人がいます。なぜなら、その人々は主イエス様にあって、永遠の幸福を見出したからです。人間は誰でも死に向かう者です。なぜでしょう。なぜなら、人間は誰でも主なる神の前に過ちを犯す者であるからです。

善を行なう者はいない。ひとりもいない。(詩篇14・3)

と、聖書は言っています。聖書の言っている罪は、生けるまことの神からの隔てです。人間の本来の病は、罪の本質です。この病をいやすためにイエス様は十字架にかかってくださいました。

(5月5日、西軽井沢国際福音センターで開かれた「喜びへのコンサート」で語られたベック兄のメッセージの聞き書きである。私もその場におり、短い話だが感銘を受けた。昨日6日こちらに戻った。帰る際、若き友に願って車に便乗させていただいた。聞き書きをするうちにこの若き友との車内での豊かな交わりの中にメッセージと同質のものがあったことを思い出した。それが何なのか、明日は少しその恵みについて書き加えたい。) 

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