2014年5月19日月曜日

歳月人を待たず

2013.5.18 小諸城趾から見下ろす千曲川※
昨日知人より一通のメールが舞い込んで来た。パリの個展の案内であった。パリ在住の次男夫妻に知らせて欲しいという文面であった。読んでいるうちに最初何となく恨めしい思いがした。一年前の昨日、次男の妻は日本帰国中に倒れた。そして日本で治療に専念している。次男も休職し妻の治療に協力している。ちょうどその一年が経過した日であった。

でも、その次に襲って来た感情は、人にはまる一年間互いに消息を知らないで過ごしてしまう間柄もあるんだということだった。

それにしてもこちらの態度がそもそも問題なのだと悟るのには随分あとになった。不思議なことだがその二三日前、私にもその知人の存在を覚えた時があった。知人がいつも行くところを私は知っている。それにもかかわらず私は出向いて彼に声かけることをこの一年間していなかったのである。

むしろ彼の方こそ、私を覚えてわざわざメールを寄越してくださったのだ。決して「舞い込んで来た」ものでなく、彼の愛のあらわれであると知った。私の方こそ、この一年全く彼に失礼を重ね続けてしまったのである。

彼に一年前に次男夫妻を襲った出来事と、その後一年の歩みを淡々と綴って返事した。彼から「何も知らずにおりまして申し訳ありません。ただ”火のような試練”という聖句がとっさに浮かんできました。ただ祈らせていただきます。」とあった。ありがたいことだ。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。(1ペテロ4・12〜13)

このような試練の中、主イエス様はいのちの危うかった彼女を立ち上がらせ、回復への道を与え続けてくださっている。次男夫妻はそのことが起こる前に聖書を通して次のみことばが与えられていたと言う。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6・1〜3)

このような不変的なみことばに頼って、信仰にもとづく恵みのうちに第二年目も歩めるよう祈っている。
 
(※昨年私は大学の先輩後輩と4人で信州を旅していた。最終日は小諸であった。その時の写真である。そのほぼ同時刻に椿事が東京で発生していた。)

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