2014年5月29日木曜日

大きな喜び

みことばを食べるということについて内村鑑三の解説とベック兄のメッセージを紹介したい。先ずは内村氏の『宗教座談』からの引用である。

私どもの肉体を養うに 魚 肉 野菜 穀類などの食料がございます。また私どもの智能を養うに宇宙万象に現われたる天然の理がございます。しかし食物も天然も私どもの霊魂を養うには足りません。私どもの霊魂を養うに足るものは人類に下し給いました霊の糧なるキリストでございます、聖書にこう書いてあります。

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6・35、51)

キリストの血を飲みその肉を食うといえば何やら食人人種のなすことのように聞こえますが、実際我々が霊魂の苦悶と飢餓とを感ずるときにはこれを癒し、これを充たすものは彼の血と肉とより他はありません。その化学上の説明のごときは神聖に過ぎてここにこれを述べることはできません。もし貴下方が聖アウガスチンや、詩人ミルトンや、偉人クロムウエルや、バンヤンや、グラッドストンが神を需(もと)めしような熱誠を貴下方の心に持ってご覧なさい、私がここに述べましたことが決して夢でもなければ幻でもなく、実の実、真の真であることがお解りになりましょう。要はまず霊魂の存在を確かむることでありまして、これを確かめて後にキリストを信ずるに至るのは自然の順序でございます。
( 『宗教座談』内村鑑三全集第8巻164頁より)

次にベック兄が主のみことばを受け入れる態度について述べた文章からの抜粋引用である。

主のみことばは、ただ聞いて理解するだけではなく、食べて、自分自身の一部としなければなりません。ここで二つの問題についてさらにくわしく考えて見ましょう。一つは「正しい聞き方」とはどういうものかです。

正しく聞くということは、主の前に黙って主が語ってくださるのを待つことと、主が語ってくださったみことばを受け入れる、「食べる」ということです。

主がすべてのことについて語ってくださることができるように、私たちも備えをしようではありませんか。聖書のみことばの中で自分の好きなところだけを探して読むのはまちがっています。イエス様は私たちの生活をよりよくするために忠告を与えようとなさっているのではなく、私たちの生活全体をご自身の御手の内で用いたいと望んでおられるのです。

私たちが主のみことばを受け入れるときにのみ、主のみことばは私たちのものとなります。食物は 「食べられる」ことによって私たちのものとなり、身体の成長を助けます。同じように主のみことばは、私たちが「食べる」ときにはじめて実をもたらすのです。そして主のみことばに服従することです。

次に何が「正しい聞き方の結果」か考えてみたいと思います。二つのことが言えるのです。第一番目は「大きな喜び 」、第二番目は「深い苦しみ」であります。

まず、(みことばの)正しい聞き方の結果は「大きな喜び」です。

食物の中の食物として、神のことばはどんな食物よりも人の心を満足させるものです。

主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。(詩篇19・8)

あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119・103)

私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(エレミヤ15・16)

主のみことばを通して、私たちはキリストの苦しみと死を知るのです。またキリストの流された血潮と、値なしに与えられている救いを知ることができるのです。「正しく聞く」というのは自分が黙して主に語っていただくことです。自分の意見や考えはむなしくして、神に従うということです。そうするときに絶えることのない喜びと平安が保たれます。

喜びの土台は罪の赦しを与えられているということと、主との間に平和をもっているということ、そして義とされているということにあります。この確信を私たちは主の偽りのないみことばを通して与えられます。

私たちはどれほどの豊かさを主のみことばを通して与えられているでしょうか。もし喜びに満たされていないとしたら、その人は主のみことばによって生きていないのです。今日世界には多くの飢饉があります。しかし、なんと多くの主を信ずる人々が、みことばの飢饉の下で苦しんでいることでしょうか。主のみことばを正しく聞くことをしない人は、飢え渇きに悩むのです。

私たちが宣べ伝えるべき福音は「喜びの福音」です。私たちの意見ではなく、主のみことばを宣べ伝えなければなりません。「預言する」ということは主の権威によって主のみことばを宣べ伝えることです。

主のみことばは、ことを起こすものです。私たちが罪の赦しのみことばを宣べ伝えるときに、罪の赦しが起こるのです。罪が赦されるであろうことを私たちが自分勝手に望んでいるというのでは決してなく、主のみことばによって実際に罪の赦しが起こるのです。人間的にみると、「神の使い」、つまりみことばを宣べ伝える「神のしもべ」たちは無力で、その人自身は何も誇れるものは持っていないように見えます。しかし主のみことばが彼らの宝なのです。このような「神の使い」については聖書の中に数多くの実例があるのです。

たとえばヨセフはエジプトで囚われの身となり、何の希望もありませんでした。しかし彼は主のみことばを通して力を得ました。またモーセは平凡な羊飼いでしたが、主のみことばと権威によってイスラエルの民を囚われの身から解放しました。そしてダニエルはバビロンに囚われていましたが、主のみことばによって力を得ることができたのです。

(『すぐに起こるはずのこと』ゴットホルド・ベック著第三巻118〜123頁より引用構成。)

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