神のことばに従った結果は単に喜びを得られるだけでなく、「深い苦しみ」を与えられることにもなります。次にこのことを考えてみたいと思います。
主のみことばは聞く者には「喜びと恵みの言葉」ですが、他方では「悔い改め」と「さばき」を求める言葉にもなります。この意味で、主のみことばは喜びばかりでなく、「苦しみの言葉」でもあります。私たちが宣べ伝えるみことばを私たち自身が受け入れなければなりませんが、その受け入れたみことばは私たちをさばくことにもなるのです。
主のみことばは霊と魂とを切り離します。自分の感情や考え、意志などは投げ捨てられなければなりません。自己が否定されなければならないのです。
私たちが主のみことばを伝えるときには、この主のみことばが私たちを自己否定の苦しみへと導くのです。
エレミヤやパウロも誤解を受け苦しめられたことがありました。みことばを伝える者はこの世では「アウトサイダー」であり、「平和を乱す者」で、「異分子」とみなされます。悔い改めのない世界にみことばが宣べ伝えられるということは、つねに苦しみを意味します。
私たちは大勢の人々が救われることを望んでいます。しかし多くの人々からそれを拒まれます。これは私たちにとって苦しみとなります。
イエス様ご自身もみことばのこのような二つの面を経験されました。イエス様は大いに喜ばれたと聖書は一方で述べています。
ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(ルカ10・21)
イエス様は「聖霊によって喜びにあふれた」とありました。しかし一方では、イエス様はさばきのことを思ってエルサレムのために「泣かれた」と書かれています。
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。(ルカ19・41〜42)
エルサレムは悔い改めることがありませんでした。イエス様が泣かれたのは、人々がイエス様に逆らったからではなく、彼らがさばきにむかっていることをご覧になられたからです。
この苦しみが「とりなし」と「証し」との源となります。福音が、つまりイエス様が拒まれるときには、イエス様のみことばはさばきのみことばになります。イエス様なしにはどんな希望もなく、ただ「滅びる」だけです。私たちがこの事実をほんとうに知ったときには、もはや無関心ではいられないのです。私たちはネヘミヤやエズラ、ダニエルと同じように、滅びに向かっている人々のために自ら悔い改め、とりなしをしないではいられなくなるでしょう。これらの「神の使い」たちは、自分自身が罪を犯したかのように、その同国人のために悔い改めました。
そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」(黙示10・11)
真理が宣べ伝えられるときには、拒絶と敵意が生ずるものです。悔い改めとさばきが宣べ伝えられるところには、迫害が起こるものです。しかしヨハネは人々が彼に逆らい、刃向かってこようとも、預言を続けなければなりませんでした。
私たちはみことばによって自分自身を養っているでしょうか。みことばを食べて、みことばと一つにされているでしょうか。みことばがこの世のすべての甘いものよりも、私たちにとって甘いものとなっているでしょうか。
どんな苦難の中にあっても私たちがみことばから離れられなくなっており、すべての苦しみを喜んで受け入れるようになるなら、私たちは主に祝福され、主に用いられるようになります。
(『すぐに起こるはずのこと』第3巻ゴットホルド・ベック著123〜126頁および同録音テープより引用構成。昨日、今日と引用した文章はいずれも黙示録10章11節に関連するベック兄の聖書講解のことばを中心に再構成したものである。昨日も冒頭で内村鑑三の著作をほんの少し引用したが、内村が獲得している読者数にくらべ、ゴットホルド・ベック氏の著作の読者数はきわめて少ないと思う。その原因は知名度のちがいと私たちの内に存在する不確かな自己像にあるのではないかと思う。すなわち、搦め手からみことばを明らかにしようとする内村氏は私たちが受け入れやすく、直接みことばに肉薄して己を捨てることを迫るベック氏を私たちが敬遠するところにあるのではないかと思う。私はこのゴットホルド・ベック氏の著作『すぐに起こるはずのこと』全4巻はもっともっと多くの人に読まれて熟読玩味されるべき本ではないかと思う。)
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