ほぼ一週間の間に親しい方の訃報に接し、今週は月曜日と今日の木曜日と二度葬儀に出席した。月曜日は仏式であった。今日は聖書に基づく葬儀であった。下記はその葬儀で語られたメッセージの聞き書きである。
H姉妹のご逝去はご家族の皆様にとっては大きなショックであったのではないかと思います。死が突然やって来ることを私たちはお母さんの死を通して考えなければなりません。でも、「備えあれば憂いなし」と言います。
確かに私たちの前からお母さんの、今は亡骸はありますけれど、日常(的に)会話するお母さんは私たちの前から奪われたわけですが、そのことだけを目に留めると、本当にショックと同時に心は動揺するばかりであります。しかし、先ほど兄弟が、司会の兄弟、また祈りの兄弟が、祈られましたように、一旦目をお母様が召された天の御国、そしてイエス様ご自身に目を転ずることを通して全く違った見方、というよりもその本当の真実の姿を私たちは知ることができるのであります。
私もお母様とはそれほど深い会話をしたわけではありません。けれどもお母様が集会に集われて、そして礼拝にともに参加した間柄です。そしてお母様が召されてからお母様自身の聖書を通して、私はお母様の新しい姿というのを存分に知ることができたのです。先ほど「備えあれば憂いなし」と申しましたが、お母様はご自身の死に対してはっきりとした聖書、すなわち、いのちの書である神のことばで備えておられたことを私は知りました。自分の息を引き取るあとのことをはっきりと書いておられます。
先ほど兄弟が紹介されましたように70歳の時にイエス様を受け入れて、そして80歳の時に、いつ死んでもいいようにその証を書きとめられたのであります。70歳と言うのは、私は今71歳ですから全く同年齢、その時にお母様はイエス様を信じられました。そのことはお嬢様でいらっしゃる長女のM子姉妹から祈られ、そして福音を聞かれた結果であります。お母様が洗礼を受けられた時にM子姉妹は次のみことばを読まれました。エレミヤ書31章3節です。
主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」
お母様は永遠の愛をもって愛してくださる方、誠実を尽くし続けてくださる神様、イエス様の愛を心の中心に受けとめられました。そして聖書が示す、「死は終わりではない、死んでも生きる道」をご自身の霊で感じておられたのではないでしょうか。聖書に対する書き込み、あるいは様々な傍線の箇所、また集会に出席した時のノートを見せていただいたのですが、メッセンジャーが語られるメッセージ、それは御霊なる神様が人を用いて語られるものでありますけれど、素直にそのとおり記されているのです。
私たちは人の話を聞く時に、本当に素直でしょうか。お母様は70歳を越えて、ご主人とともに集会に出席したその時に、年下の者が話すことをそのまま素直に書きとめておられるのです。書き込みがない場合にも聖書のメッセージをその聖書の中に鉤括弧で記しておかれるのです。私はそれを見て、今日の葬儀は何も必要ないな、と思ったのです。お母様の記されたその聖書のことばを朗読するだけでもう十分私たちの心は満たされるという思いがしました。
なぜならば御霊なる神様ご自身にお母様は心の深いところでやはり支えられていたのです。家族の中ではM子さん、Iさんの知らないお母さん、いや良く知っておられたのでしょうけれど、やはり(人の)霊のことは(神の)霊を通してしかわかりません。たとえ親であろうとも生けるまことの神様に対する心の思いというのは、本当に主ご自身しかわからないのです。けれどもお母様はそのような聖書を私たちに残して下さいました。
それはお母様に誠実を尽くし続けられたのが、「永遠の愛」をもっておられる神様で(あるからで)す。お母様のお名前は本当に(ある意味で)珍しい、姓と名の組み合わせですが、この「永遠の愛」を受け継ぐにふさわしいお名前ではないでしょうか。どのように生きられたか、死んで終わりではない、永遠の生に連なる生き方をイエス様をとおして受けとめられていたのであります。だから今日の葬儀はイエス様にあって召されるということがどんなにすばらしいことか聖書をとおして考えさせていただければ幸いであります。H子お母さんが一番喜んでくださることはそのことであります。
人は息を引き取ります。しかし、イエス様を信じて死ぬ者は聖書には
『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』(黙示14:13)
とはっきり書かれています。息を引き取った瞬間。妹さんのIさんはその時に立ち会われてもっと自分が(お母さんの状態に)気がついていれば良かったのにと自分を責めておられるということを漏れ聞きしましたが、確かにお母様は病院を、いろんな病院を経由して私たちが信じられないような形で早く召されたのですが、お母様は、イエス様のもとに(息を引き取られた瞬間)、行っておられるのです。だから、お母さんのことは何も心配する必要はないのです。問題は遺された私たちの方です。
なぜならばイエス様のところに行かれたお母様は、地上のすべての生活にまさって、素晴らしい生活、私たちが想像できないような
見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示21・3〜4)
と、書いてありますように、そのような「目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」(天の御国に行かれたのです)。本当にこの地上で生きることは私つくづく思うのですが、つらい悲しいことが多くあります。けれどもイエス様にある死者、イエス様を信じている者は決して死が終わりじゃないのです。
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