2022年2月7日月曜日

麦畑歩む人の子、などて文句つけるか

ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」(マルコ2・23)

 餓えた者が、畑にある麦を摘んで食しても、盗賊とならないのは、さすがモーセの作った美しい法律である(※)。しかるにパリサイ人がこれを見て安息日を犯すものとして咎めたのは如何に聖書の文字を知って精神を解せぬ人たちであるかを証している。

 同情の心なき宗教はいくら聖書の文字に通じていても、その精神を去ることいよいよ遠い。それはとにかくとして、イエスはお弟子らがその伝道旅行において度々餓えたり渇いたりなさったことが窺われてまことにすまない心地がする。弟子たちもまたこの貧しい先生の跡に従順について歩いたのは誠に美しいものがあると思う。

 主イエスは無知でなした弟子らの自然の行動を弁護し、かつこの機会において安息日に関する新解釈を与えて『安息日は人間のために設けられたのです』と喝破して新しい意義を古い形式の中に吹き込まれたのもまた実に嬉しい事実である。

祈祷

主よ。安息日にもせよ安息日にならざるにもせよあなたはつねに『人間のために』働いてくださることを感謝申し上げます。あなたは日夜私たちのために良い賜物を与えようと、あるいは餓えあるいは渇いてくださることを感謝申し上げます。アーメン

(※引用者註:申命記23:25「隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない」とある。クレッツマンの黙想も素晴らしいものがあるが、ほぼ青木氏と同じなので、かえって煩雑になるので今回は見送った。それにしてもパリサイ人のイエスさまへの言いがかりは尽きることがない。しかし、イエスさまがこれに対して返す刀で何と答えられたか、二つのことを明らかにされている。詳しくはマルコ2・25〜28を参照いただきたい。)

2022年2月6日日曜日

会食と断食(3)

だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。(マルコ2・22)

 この箇所の青木さんの霊解はブログ子にはやや納得がいかないところがあるので(理由は末尾に記す)、能う限り、様々な方々の注釈を調べたが、以下のものがもっともふさわしいのではないかと考え転記する。(『聖書注解』キリスト者学生会発行1959年版 825頁)

 福音の新局面に古いユダヤ教の慣習をあてはめることは、真新しい布ぎれを古い着物についだり、新しいぶどう酒を古くて固い、弾力性のない皮袋に入れるように不適当であり、結果において不幸である。これはまさに後のユダヤ教教師の誤りであった。パウロのガラテヤ書の論争はそこに向けられている。(例ガラテヤ4・9〜10)

 これに対し。青木氏の霊解(『一日一文マルコ伝霊解』37頁)は以下のものである。

 主はご自身の教えの新しくしてパリサイ人の思想の古いことを攻撃されたのだとのみ見るのは少し狭い見方であろう。もちろんそうにはちがいないが、たとえイエスの新しい教えを信ずる者でも2000年も過ぎた今日はまた古い思想だとの誹(そし)りを受けまいものでもない。私は思う。これはキリストを信ずる者の思想はつねに新鮮なものでなければならないことを主張したのであろう。

 形式にとらわれる者は停滞するがゆえにつねに古い。心から湧き出でてくるものは、たといその形は古くともその質はつねに新しい。その質の新しいものは形式にとらわれない。むしろいつも新しい形を創造していく。キリストを信ずる者は神より賜る恵みがその心から日々湧き出てくるゆえに一日として陳套(ちんとう)の日はないというのであろう。

祈祷

一日として古きマナを貯えるのを許し賜わざる天の父よ。願わくはややもすれば陳套ならんとする私をあわれみくださって、日々あなたの新しい恵みを味わい、日々新しい世界を発見し、日々新しいいのちに歩ませてください。アーメン

 以上が青木氏の霊解であるが、ブログ子が不満を覚えたのは、下線部の叙述は折角の青木氏の主のみことばに対する絶対的な信頼が、それを疑わせる表現になっていないかと恐れたところにある。もっとも祈祷のことばを読めば、そう目くじらを立てる必要もないのかもしれない。

2022年2月5日土曜日

会食と断食(2)

手折れても よみがえりたり 紅梅の いのち鮮やか 色香ただよう

イエスは彼らに言われた。。「花婿が自分たちといっしょにいる間、・・・断食できるでしょうか。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。(マルコ2・19〜20)

青木澄十郎の霊解(『マルコ伝』36頁)

 断食と言ったような行為は心の中から湧いて出づべきものである。弟子たちは今イエスとともにあって歓喜に酔うている。花婿を見出したような歓喜を味わっている。

 しかしペテロにせよ、ヨハネにせよ主が十字架につき給うた後は精神的にも肉体的にも普通の断食以上のさまざまの断食に身を苦しめた。

 私たちには主イエスとともにあることによって彼らのように大きな歓喜もなければ、主を見出し得ない時に彼らのような苦痛もない。私たちの宗教生活には婚宴の歓喜もなければ断食の苦しみもないのである。彼らにとってはキリストが生活のすべてであったから、キリストによる歓喜も苦痛も大きかったが、私たちの生活にとってキリストは九牛の一毛にすぎないのではあるまいか。反省したい。

祈祷

主イエスよ、私はあなたがおられない世界にあっても、多くの損失を感じないまでに落ちぶれた生活を続けております。願わくは、あなたにあって私が花婿を見出すことができるように私の心の目を開いてください。アーメン 

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』51頁)

 わたしたちのキリスト教は喜びの信仰であって、ゆううつの信仰ではありえない。そして主は彼らにその花婿が彼らから取り去られて、悲しみの時がやがてやってくるのだと話される。その時、彼らは、再び主を見る日まで嘆き、悲しむにちがいない。

2022年2月4日金曜日

会食と断食(1)

ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」(マルコ2・18)

青木澄十郎の霊解(『マルコ伝』35頁)

 古来真剣な宗教家はいずれの宗教を問わず難行苦行をする。ひとりキリスト教のみ安逸の宗教であろうか。私は今日のクリスチャンがあまりにラクすぎると思う。一週一回教会堂に出席するだけの人が多いようである。これはパリサイ人にも劣ったずるけ方である。

 パリサイ人は形式だけにしろ一週間に二度も断食して肉体を苦しめた※。もちろんそれは神の前にでなく人の前の断食であったであろう。イザヤが『あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない』(イザヤ58・4)と嘆息した通りである。

 しかし私どもは『いと高き所に届く断食』をする必要はないか。肉体は神の宮であるから大切にせねばならぬ。けれども、時には肉体を苦しめ肉体に打ち勝つ修行をしないと、宗教もその剛健さを失う。

祈祷

主よ、あなたは日々己に克って十字架を負えと命じなさいましたが、私たちは肉に負け、いたずらに安逸をむさぼり、十字架を負うことを嫌います。願わくは、私に己が肉体を撃ってこれを服従させる勇気をお与えください。アーメン

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』50頁)

 これらのことがら(引用者註:イエスさまが『罪人を招くために来た』と言われ、パリサイ人の偽善をあばかれたこと)は、他の言いがかりを惹き起こした。その敵たちは、実際には彼らは、バプテスマのヨハネの悔い改めの叫びに耳を貸していなかったにもかかわらず、唐突に自分たちがヨハネの弟子たちと少しばかり似ている点に気づくのである。

 すなわちそれは、人間の手になった断食の規則をきびしく守りつつ、悲しみつつ生きる者となるという、きよさに対する誤った熱心さである。しかし長く待ち望まれた花婿としてのメシヤが、今ここに、彼らの中にいるということは、むしろ祝いの時であり、喜びのみなもとではなかろうか。

(※引用者註:この青木さんの文章は、ルカ18・12を念頭においての表現だろう。このようにイエスさまがたとえで用いられたようにそれが当時のパリサイ人の実際であった。それにくらべて弟子たちの態度は全く異なる。青木さんの文章より、クレッツマンの文章を味わいたい。)

2022年2月3日木曜日

罪人を招いてくださる主イエスさま

「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて彼らにこう言われた 。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2・16〜17)

 有名なみことばである。これほど私どもにとってありがたい言葉はあるまい。マタイ伝にもマルコ伝にも単に「罪人を招くために来た」とあるが、ルカ伝には「罪人を招いて、悔い改めさすために来た」とある。

 この席に列したペテロ系のマルコ伝、同じく列席者のレビから出たマタイ伝の方が、パウロ系のルカ伝よりもこの記事は正確と見てよかろう。ルカは少しく後の人であるから「悔改」の二字を入れて誤解のないように注意したのであろうが、私には主が無条件に「招き給う」ことが一層ありがたく感じられる。

 しかも招いて教誨するようなこともなく、招いて先ず食を共にされたことが誠にありがたい。この寛大な愛こそ私の如きひねくれた者もついには悔い改めずにはいられないようにさせるのである※。

祈祷

罪人を招こうとして来てくださった主よ、あなたは実に私をもそのまま招いてくださることを感謝申し上げます。願わくは、私を招いて先ずあなたと共に食することを学ばせてください。アーメン

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』50頁)

 律法学者やパリサイ人たちは、・・・さげすみをもって弟子たちに話しかける。どうしてこんなことがあってよいだろうか。人はその友によってはかられる。罪人たちの友ならば、彼自身一人の罪人にちがいないと。

 しかし、主はすぐさまそれに答えられる。パリサイ人たちは、そのイエスを好まない。彼らの自己満足は、自分たちは健康で、丈夫で聖なる者だと思わせている。しかし、病める者、罪ある者、悲しむ者は、主がそれらの魂にもたらされる癒しの愛の祝福からはずされることはないのである。主が実際に罪人たちの真の友であることは、あなたやわたしにとって何と素晴らしい祝福だろうか。

(※ある時、イエスさまを友人にご紹介しようとされた方が、冒頭のみことばの類似個所のうち、ルカ伝を紹介しようとも思われたが、やはり『悔い改め』の言葉がその友人のつまずきとならないだろうかと考え、マルコ伝のこの言葉を送ったと言われた。『主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。』詩篇130・3〜4。ルカ伝が間違っているわけではない。聖書のみことばの適用はそれぞれにその時と場合があるのだろう。)

2022年2月2日水曜日

いっしょに食卓に

群れなして 餌求め鴨 急ぎ来る 

それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や 罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。(マルコ2・15)

 いづれの国でも大抵上中下の三階級から成り立っているが、その他に第四階級とでも言うべき捨てられた階級がある。徳川時代にいわゆる非人とか穢多とか呼ばれ社会の埒外に置かれ普通の人間として取り扱われなかったものがあった。『取税人や 罪人』とはそんな階級を指すのだと思えば大した間違いはない。

 福音書に見える『罪人』を前科者と考えたりまたは特別の悪人と考えたりしては誤る。もちろんかかる階級の人は道徳の標準も低く、社会に対する反抗心も多いから、従って一般の社会から見てヨリ悪い人のように見える。

 イエスはこれらの人に対しても少しの城壁も設けられなかったのである。レビがマタイとなって十二弟子の中に加えられたとき、他の十一人が苦情を持ち出さなかったのは全くイエスの大なる人格が一視同仁、何人も包含する偉大なる力あることを示すものである。

祈祷

主イエスよ。あなたは親しいお弟子たちの中にレビをお加えなさったことを感謝申し上げます。いかなる社会のすたれ者もあなたの手によって救われないことはないのを感謝申し上げます。

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』49頁)

 やがてレビの家は。多くの者がむらがり集まる場所となる。多分、この時の部屋は、レビや彼の仲間である、罪人たちの集まり場所であったのだろう。彼の友だちは今や、レビが彼らとは違った他の客、すなわち別の階級に属する有名なラビ、ナザレのイエスを迎えているのを見て、驚いたことに違いない。彼らがイエスと、またイエスが彼らと何の関わりがあるというのだろうか。主の弟子たちでさえも、心おだやかならぬものがあったかも知れない。

 しかし、見よ、今彼らの仲間の一人の心を癒したこの偉大で聖なる人の中には、何らの尊大さも、己れひとり高しとする態度も見受けられない。彼は打ち解けた友となって、彼らと飲み食いを共にする。レビがそれまでに接したどの友人よりも優れているこのかたとともにある生活が、どんな金造りや、乱痴気騒ぎよりも、はるかに素晴らしいものだということを、彼らも悟ることができただろう。

2022年2月1日火曜日

わたしについて来なさい

イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって 、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。(マルコ2・14)

 イエスとレビとは個人として全く未知の人であったか、幾分知り合いであったかは不明であるが、群衆の一人としてのレビはイエスを知っていたものに相違ない。呼ばれたときに直ぐついて行ったところを見ると、イエスの教えを度々聞いてその心を動かされていたものと思われる。

 『「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。』とは実に率直なレビの態度をそのまま現しているように思う。現在の収益多い職業に少しも恋着した様子がない。従いたかったけれども自分の軽蔑せられている地位を考えて遠慮していたように思える。

 私の信仰生活に最も深い印象となっているのは私がまだ十歳くらいの時、東京芝区の日曜学校に出席していたが※、ミス・ヤングマンと言う宣教師が本国へ帰るお別れの言葉として『わたしについて来なさい。』との語を大声で暗唱させられたことである。イエスに従うほど大切なことは他にない。

祈祷

主イエスよ。願わくは、私にレビのような従順さをお与えください。あなたがお呼びになるとき、一切万事を忘れて、飛び立つ歓喜をもってあなたに従う心をお与えください。アーメン

クレッツマンの黙想(『聖書の黙想』49ページより)

 道を行かれるイエスは、のちにマタイと呼ばれる卑しめられていた取税人レビが、収税所に座っているのに目をとめられた。そこを通る商人や、他の人々は道に陣取っている収税所に、ローマ政府のための、呪わしい税金を払わねばならなかったのである。

 主のみことばの『わたしについて来なさい。』は、この男をして、その利得の多い職業を、困難でしかも自己犠牲的な生活のためになげうたしめるに十分であった。しかも、この選択をなした者は誰一人としてそのことを後悔しはしないのである。

(※このように、青木さんはしばしば、幼い頃の日曜学校の思い出を語る。それは単なる思い出でなく、今も、すなわち老境に入った青木さんを動かしている主の愛・摂理に対する感謝であることがわかる。まさしくクレッツマンが指摘する通りである。私自身はやはり10歳ごろ、宣教師が中仙道https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/06/blog-post_9236.htmlを「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずる者は誰もみな救われん」と歌いながら、行進され、そのあとを遊び仲間と一緒に、半ば興味本位ではあったが、ゾロゾロついて行ったことを懐かしく思い出す。考えてみれば、その時が私の耳に直接入って来た最初の福音であった。その福音の意味を知るのはその後17年を経た27歳になってからだった。)