2024年5月16日木曜日

復活の最終目的(3)最終的満足の完成


今日は30年以上前に教会で親交のあった方から、お手紙をいただきました。たまたま半年ほど前にその方と路上でお会いし、翌日には春日部から他都市に引っ越されると知り、それでは永遠(とわ)のお別れになっては大変だとばかり、急いで私たちの証の載っている冊子を家に取りに帰り、慌しくしていらっしゃるお宅のポストに投函しました。その後、どうされたかとは思っていましたが、それ以上お尋ねすることもありませんでした。

その方が自筆の美しい便りを便箋4枚にびっしりと書いて近況をお知らせ下さったのです。そのお手紙の端々に現れているのは、その方の主への感謝の思いでした。長年、信仰に反対してきたご主人が、病を得て車椅子に頼らざるを得ない日々の中で、「礼拝に出たい」と言われ、結婚後50年にして、初めて夫婦で近くの教会の礼拝に出られるようになったというお証でした。心温まる思いにさせられました。

昨日は昨日で、もっとも近隣にお住まいで毎日のようにお交わりをいただいている方が、定例の家庭集会の場で(多くの皆さんの前で)正直な証をなさいました。ネットで全国の多くの方がそのお証を聞いてくださっていると思うと、これまた嬉しい思いにさせられています。

思いもしない恵みは主から一方的にいただけるものなんでしょうか。今日お載せしました「すみれ群」は一週間ほど前に古利根川の上流の河辺に忽然と私の目の前に現れた感のあるひとり生えの花です。さて、以下は『キリストの復活』の最終稿です。黙示録22章についてメリル・C・テニーによる的確な「神の都」と「復活」の関係が読み取れる論考ではないでしょうか。

 人生のおもな価値の一つは、それによって望みがかなえられるということである。願望の充足ということは、それ自体が悪であることはないが、ただ、神の位置を侵すならば悪となる。しかし、正当な生活欲求は、満足しうる回答を得るなら、快楽を味わわせてくれる。確かに神の都は、回教の言う楽園のように、この世で知られているあらゆる欲望やあこがれを、無制限に満足させてくれるものではない。イエスは、復活において、私たちの構造そのものが全く変わってしまい、ちょうがいも虫の生活を熱望することがないように、私たちは肉的な欲求を持たなくなる、と言っておられる。しかし他方、黙示録22章2節で「 毎月実ができた」と言われている木は、おそらく、永遠の、しかも飽きさせることのない快楽を描写しているものであると思われる。あきあきすることのない満足、けん怠を伴わない享楽こそは、私たちの分け前なのである。

 しかし、満足な願望の充足だけを意味するものではない。それ以上のものである。それは物事を、達成を見るまで建設的に助成する。人は、夢に描いた完全な絵をかき、完全な調べを作曲し、完全な大教会堂を建設しようとする。それに比べて啓示は普通、私たちの夢よりはずっと保守的である。しかもそれは、次のような含蓄ある言葉を言明しているのである、「もはや、のろわれるものは何もない」、また、「しもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」。

 「もはや、のろわれるものは何もない」。(黙示22:3)。これは、創世記3章17〜19節に直接言及した言葉である。「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」。

 のろいは、労働しなければならないという点にあるのではない。労働は、人が罪を犯す前にもあった。のろいは、労働の不毛性にあるのである。雑草や害虫、洪水や酷暑に戦いをいどまれ、最後に人間は、自分がしてきたのはただ、単調なほねおり仕事を長びかせただけなのではないかと思いながら、その生涯を閉じるのである。復活が開放してくれる世界では、このすべてが変えられる。のろいは解かれる。それで労働は、障害や失敗を見ることなく、十分な報いをもたらすようになる。農夫が、すべての穀粒があふれるばかりの収穫をもたらし、生産者が、きず物や不できの物を決して造らず、あらゆる努力が、それ相応の結果を確実に望むことができるとしたら、なんとすばらしいことであろう。きたらんとする神の経綸の中では、まさにこのような事が約束されているのである。

 「しもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」(黙示22:3)。この究極の状態は、無気力な静止状態を物語るものではない。天国を、肉体を離脱した霊が、雲に乗って、ハープの弦をかなでながら、とりとめもない歌を永遠に歌っている場所として描くのは、とんでもないまちがいである。それはまさに戯画であり、また、真理にはほど遠い描写である。ここにあげた聖句は、積極的な活動を呼びかけている。神への礼拝は、天的楽しさの一断面以上のものだからである。確かに、そこでは、地上では知りえなかった敬けんさと献身とを伴う神礼拝と神への賛美とがささげられるであろう。しかし、そこには、他の活動の余地もあるのである。それがなんであるかは、まだわからない。それが、私たちが宣教師になって他の宇宙に行くことなのか、それとも、かつては想像することもできなかった資源や動力を用いて、全く新奇な世界の探検に乗り出すことなのか、などと推測したりすることは、愚かさの限りである。その事はまもなくわかる事なのである。疑いもなく、神は、それが明らかにされるとき、私たちを驚かせ、喜ばせようとして、それを今、秘密としておられるのである。しかし、一つの事だけは確実である。私たちの労働が、積極的、永遠的な価値を持つものとなるということである。そして、すべてがこのようにして最後的な完成を見る生活に到達するためには、復活の門を通らなければならないのである。

 もう一つの事だけを補足しておく。その満足は決して尽きないということである。「彼らは永遠に王である」(黙示22:5)。「よい事にも終わりがある」という格言がある。この世においては、これは真実である。きょうあった式典の感激は、あすの苦労にあえばたちまち忘れ去られてしまう。きょうの勝利で味わった満足も、あす敗北のうきめにあえば、その実を失ってしまう。一人物が勤勉さと好首尾とによって建て上げた事業も、後継者によってたちまち衰微、没落させられてしまうかもしれない。成功と失敗、勝利と敗北、目的達成と挫折は、寄せ来る海の波の連続のようなものである。ある一つの方向に、不断の、尽きることのない進歩を見ることは、この世では不可能なのである。しかし、神の都では、私たちは、栄光から栄光へと進む。「王である」とは、勝利の生活の不断の連続性を意味するものである。

 それは、神の復活の最終目的である。しかし、地上の物語との関係においては最終的なものでも、復活は、あがないが私たちに提供しているものとの関係においては、また第一歩を画するものでしかない。黙示を仰ぎ望んだ預言者は、見たことすべてを言葉に写す力を持っていなかったようである。そして、彼が用いえた、可能なかぎり強烈な色彩の言語で着色した絵画は、事実、現実にそぐわないものであると言われなければならないのである。しかし、その現実は、信じえないものではない。私たちは、もし、イエス・キリストの肉体の復活を信ずることができるなら、同じ原理によると言われているのであるから、世界の復活を信ずることもできるのである。また、もし、自分の新生と、現在における神との交わりの経験を通して、神の力をすでに味わっているのならば、神が個人に対してなさったことを、宇宙的な規模でもなさるにちがいないということを、信ずることができるのである。神は、「ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」(新約聖書 第一ペテロ1章3節)

 バンヤンが、歓喜山の頂からはるかに天の都の輝く塔を望み見たとき、彼の旅路が新しい勇気に満たされたように、私たちも、霊的ビジョンを得さえすれば、この悪と戦いとの世界の中で、神の都のきらめき、復活の福音の最終的栄光をそこに見ることによって、百倍もの勇気をいただくことができるのである。

乳と蜜との流るる国
黄金のエルサレムよ
深き御計らい覚えて
ただ黙して 声をのむ
われ知らず われ知らず
そこに待つ喜びを
栄光の輝きを
また たぐいなき祝福を

慕わしき 祝福の国
神の選びたまえる家よ
熱き心もて われらは待つ
慕わしき 祝福の国
父なる神 御霊とともに
あがめられたまえる
わが主イエスよ
あわれみをもて
安きに導きたまえ

2024年5月15日水曜日

復活の最終目的(2)環境の最終的完成


今朝は、「母の日」に長男から贈られてきた花を窓辺に出して写真を撮りました。その日、お礼の電話をかけた家内に対して、長男は、「明るい花々を見て、少しでも晴れ晴れとした気持ちになって欲しいから」という意味のことを言いました。その言葉はいつまでも私の心に残りました。それに対して贈られてきた花々を見ることをうっかり忘れていました。庭には様々な花々が次々と咲き揃っており、いつもそちらの方に心を奪われていたからです。でも今朝は、違いました。外気の色とりどりの爽やかな庭を向こうに追いやり、室内のその花を手に取って眺めてみました。愛の表れである幾種類もの花々がそこにありました。贈り主の愛を改めて一つ一つ実感したことです。

さて、主が私たち罪人に対してご自身の復活を通して最終的にくださる愛はどのようなものでしょうか。メリル・C・テニーは、昨日は、まず第一に礼拝の最終的完成がなることを述べました。今日のところでは私たちの生活環境が最終的完成を見ると語っています。どのようなことでしょうか、お読みくだされば幸いです。なお聖句は引用者の判断で付け加えました。

 環境が人生に作用し、無意識のうちにも態度や思想を条件づけることは、言うまでもない。三人のむすこを持つある母親の話がある。むすこたちは三人とも、家を去り、船乗りになっていた。母親は、その寂しさを、ある訪問客に、悲しそうに訴えた。

「どうしてみんながうちを飛び出したがるのか、わたしにはわかりませんわ。できるだけの事をして、楽しませてあげましたのに。とにかく、わたしは、この年老いたわたしを慰めることも考えてほしいのですが・・・」

 しかし、訪問客は、少しも驚いた様子を見せない。ちょうど暖炉の上には、まっ白い帆をいっぱいに張った船の絵が掛かっている。マストの上に飛びかける空の鳥を背景に、全速力で海をすべって行く絵である。彼はその老母に、「それはあの無言の絵が、お子さんがたの心の中に、それが物語っている生活へのあこがれを植え付けたからなのですよ」と語った。確かにそのむすこたちは、彼らの環境のこの部分が心の中にかきたてたあこがれに抵抗することができなかったのであった。

 いろいろな意味において、私たちはその環境の産物である。もしそれが、卑しくさもしいものであれば、私たちはがさつで不甲斐のない者になるかもしれない。子どもを貧民くつで育てるならば、彼らは貧民くつの道徳を身につける。中には、泥沼のすいれんのように、環境を超越した人も出るであろう。しかし、大多数の人は、水のように低きを求めて、人間性を失ってしまうのである。親ならばだれでも、子どもたちが自分と同様、またはそれ以上に、近所の環境に染まってしまうということを、知っている。

 ここでは罪の環境が私たちを囲んでいる。私たちはすでに内部にあがないをいただき、またキリスト者の社会は、悪しき世の中で義の小島を形成しているかもしれないが、それでも世界は、私たちにとって依然として手ごわい相手である。ジャズのすさまじい調べであるか、劣悪な小説であるか、野蛮窮まりない戦争であるか、風紀を乱す飲酒であるか、他の、私たちを取り囲む無数の何かであるかは問わず、それらは、私たちを、決定的にわなにかけてしまうことはないかもしれないが、いずれも、私たちの霊的生活を鈍らせてしまうものである。文明も、罪への運動作用を果たすことがあり、その最善の産物さえ、悪い動機や偽善性を表わすことがある。

 神の都は、私たちに、新しい環境を約束している。真珠の門や黄金の通りを文字どおりに取るべきか、それとも、預言者が幻で見た目もくらむような美しさを叙述するのに最善と思った手だてとだけ取るべきかは、ここでは問題にしない。それはともかくとして、神は、復活した信者に、神が彼らに植え付けたもうた霊的生命の純潔さを具現させているような環境を与えようとしておられることは、明らかである。新しい生活のためには、こうして、腐敗していないことは言うに及ばず、腐敗することもない環境が与えられるのである。それは、使徒と預言者の活動を土台とするものであり、その社会は、小羊のいのちの書に名を書きしるされた者たちだけのものとされる。復活はこのように、神の子たちを新世界に住みうる者とする、神の準備の、最後の段階を意味するものである。それは、永久に古い罪による環境をかたずけ、清潔ですばらしい世界に私たちを生まれさせるものなのである。

都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって・・・十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。・・・すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。(新約聖書 黙示録21章11〜12節、21節、27節)

2024年5月14日火曜日

復活の最終目的(1)礼拝の最終的完成


今日は昨日の雨に比べて、爽やかな一日でした。二日続きの病院通いでしたが、今日のは心臓の動きを調べるための24時間ホルダーを提出するためでした。無事に提出し、帰る時、目にしたのが写真の絵でした。山本容子さんの「沼の花」という作品です。絵はさらに左の方に続いていますのに、一部だけで、作者には申し訳ないです。病院にこのような空間・絵があることはありがたいことだと思い、撮らせていただきました。お許しください。

夕刊には全国の介護保険料が月6225円に上昇したことが報道されていました。高齢化の進展で介護サービスの利用が増加しているのがその要因だそうです。認知症基本法元年の年、介護福祉の充実は国民的課題です。一方、私たち人間の霊的課題は何でしょうか。昨日に引き続いて「復活の最終目的」の「(1)礼拝の最終的完成」の部分を転写しました。お読みください。

 私たちの霊的生活は、すべて、完全な神との交わりを目当てとする闘争である。この意味では、誘惑や悪へのけしかけに満ちた罪の環境は、私たちの神へ向かう渇仰をとどめる、一種のブレーキである。天へ向かう旅路をきびしく貫こうとする気持ちは、しばしば、禁断の野で快楽の草花を摘む手を差し出すことによって、中断されてしまう。あとになって、誘惑に引いて行かれたことを自ら悔やむかもしれないが、それにもかかわらず、私たちの敗北は明らかであり、事実それによって私たちは、神のみそば近くいることができたのに、いられなくなったのである。私たちが、みそば近くに進んで行くとき、しばしば、自分の感じを表現できないこと、また、肉体の必要が思いと祈りの継続を中絶させることに気づく。私たちは幕を通して礼拝する。だから、幕の後ろに神のかたちを識別することはできても、そのおかげで、神からの明らかな光をいただくことはできないのである。復活だけが、その幕を永久に引き払ってくれる。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:3〜4)

 歴史のいかなる瞬間にも、神は、人とともに住むことを求めてこられた。それは。罪によって、実現をはばまれている。神は楽園に下って来て、禁断の木の実を食べたために恥を知って神から隠れていたアダムを捜し出された。また神はシナイ山においても、雲と雷鳴のうちに下って来られた。しかし、そのときにも人々は、恐怖にかられ、「神が私たちにお話にならないように、私たちが死ぬといけませんから」(出エジプト20:19)と叫んだ。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)のであるが、そこもやはり、彼が永遠にまくらしうる所ではなかったのである。聖誕の時には客間に彼のための余地がなく、説教の時は会堂に部屋がなく、教えをするときにも、宮は両替人でいっぱいで、彼のための余地もないありさまであった。ついに彼は、バラバの十字架にかかり、ヨセフの墓に葬られた。人間の罪の苦い皮肉は、それが、人間が必要とし、神が求めておられる交わりの道をふさいでいるということである。

 復活は、その事態を終わらせ、罪なき新しい世界を創始し、神が人と永遠の交わりを持ちうるようにするのである。そのとき可能になる礼拝においては、仲介者も儀式も象徴も、何一つ必要ではない。それは、神との直接の結びつきをもたらすのである。

 交わりが深められることを除けば、礼拝においてこれ以上の事を望むことはできない。復活は、最終的礼拝を可能にしてくれるものなのである。

2024年5月13日月曜日

復活の最終目的(序)


昨日は、ミンヘンママのお別れ会の席で、五女にあたるスーシーさんが挨拶された言葉を「母の日」にちなんで、ご紹介させていただきました。その中のポイントの一つは、主イエス様によって天国へと召された愛するお母様にご自分もまた天国で再会できるという主イエス様に対する感謝の表明だったのではないでしょうか。この確信を持つようにしてくださったのが、イエス様の十字架の死による私たちの罪の贖いと復活です。それゆえに、誰でもイエス様を素直に信ずる人はその場で直ちに、間違いなしに天国に行けるのです。それ以外の何の条件もいらないのです。

以前、と言っても8年前のことですが、ミンヘンさんの夫であるベックさんがその年の8月23日に召されるのも知らないで、私はその時、せっせとフランシス・リドレー・ハヴァガルの『霊想』を翻訳しながら、一方でそのお姉さんの「マライア・ハヴァガルの伝記」も併せて翻訳しては、このブログに載せていました。それは8月を遡ること、二ヶ月前の6月のことでした。私にとってその翻訳をとおしてキリスト者の死がいかに希望に満ちたものであるかを教えられた思いでした。そしてそれは私にとって、ベックさんの死に備える心の準備でもあったのです。ご参考のためにそのうちの一部6月15日の文章を紹介しておきます。お読みくだされば幸いです。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/06/blog-post_15.html

さて、しばらく、中断していた「キリストの復活」というメリル・C・テニーの著作の最終章「復活の最終目的」を引き続いて転写させていただきます。

すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする」(黙示21:5)

 ヨハネの黙示録は、絶えず、多くのキリスト者にとって、神秘的なものとされてきた。それをめぐって、ばかげているとしか思えないような多くの本も著された。しかし一つの点で、すべてのキリスト者は一致している。それは、最後の二章に描かれている神の都こそは、キリスト者の最後の状態だということである。その信仰は、ヘブル人への手紙では、「この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです」と表現されている(13:14)。そこに私たちは、アブラハムが求めた「堅い基礎の上に建てられた都」、またイエスが語られた「父の家」を見いだすことができるのである。

 神の都が、信者の最後に行き着く所であるとすると、それには必然的に、二つの結論が伴う。第一に、それが私たちの期待の目標であり、救いの冠である祝福を意味するものであるならば、それこそは、キリスト者の生涯の偉大な希望、また、動機を鼓舞するものでなければならない、ということである。ペテロは、私たちは「信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです」と言っている(第一ペテロ1:5)。そこは、私たちの市民権が登録されている真の母国であり、私たちはそれを今、外国にとらわれの身をかこつ者のように、仰ぎ望むのである。この地上の旅路を進めば進むほど、私たちは、この永遠の都の影を、熱心に捜す。神はこの国を、その贖罪の目的が完成される所として準備された。私たちはそこに行き着くまでは、完全にはならない。

 第二の必然的結論は、ここに言われている国にはいるには、復活を通して以外に道がない、ということである。文脈を注意深く見るならば、この事実が明らかになる。19章から21章8節までは、一連の不断の幻の進展をしるすものである。まず、神が大淫婦をさばき、小羊の婚姻の時をきたらせたもうという宣言がなされている。大淫婦によって特徴づけられる不敬けんな社会は除去され、ここに小羊の花嫁として表されている敬けんな者の社会が、キリストによって公に承認されるのである。

 征服者なるキリストが、次には、地をさばくために進み行かれる。地上の悪魔の使者たちは、そのとき火の池に送られ、悪魔自身は、「底知れぬ所」(黙示20:1、3)に閉じ込められる。キリストの支配の次には、サタンが解放され、断罪される。それからいよいよ、死せる者の大審判である。大いなる者も小さき者も、御座の前に立ち、開かれた書物にしたがってさばかれる。このさばきの恐ろしさは、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった」(黙示20:11)と言われているほどである。この審判に続くものが、新天新地の創始と神の都の下降である。

 この神の都が、祝福のうちに死んだ人々が現在いる所でないということは、次の二点から明らかであろう。第一は、それが大きな白い御座の前での審判の後のものであるということ、第二は、その前に復活が起こらなければならないということである。

 黙示録21章9節から22章5節までにある都の叙述が、全体の明確な一部を構成するものであることは、事実である。文学的構造も、その事を物語っている。この個所は、「最後の七つの・・・」という句で始まっており、思想においても、「また、七つの・・・」で始まっている17章1節と平行性を示している。この二つの部分は、構造において、また内容において(それはある程度までであるが、と言うのは、一方では大淫婦のさばきが語られ、他方では小羊の妻の顕現が述べられているから)、平行関係を持っているようであるが、本文の言葉は、ここでも時間的要素を考えるとすれば、後者(小羊の妻の顕現)が時間的には前者(大淫婦のさばき)のあとに来ることを、明りょうに示している。更に、21章1〜6節の言葉は、新しいエルサレムの到来が、最後の審判のあとであることを指摘している。したがって、21章9節から22章5節までは、この事を更に確認するものである。論理的には、それは17章1節から21章8節までと平行的であり、時間的には、それに続くものである。そうであるとすれば、新しいエルサレムは、祝福のうちに死んだ者たちの現存する場所の描写ではなく、まさにこれこそ、神の地上におけるあがないの働きの完成後における最終状態の描写なのである。

 更に、この最終状態は、復活に続くものでなければならない。20章4〜6節には、キリストのために苦難をなめた者たちの「第一の復活」が言及されている。彼らは、キリストの千年の支配のはじまりにあたってよみがえる。残りの死者は、この支配の終わりと大きい白い御座での審判の時までよみがえらない。とにかく、神の都は、よみがえりを経た人々の住居であり、復活した人だけがそこへの門をくぐることを許されるのである。もし復活が、霊的、肉体的新生、すなわち、罪人の神のかたちへの復元を意味するものであるならば、復活こそは、神の人間に対する最終目的へ向かっての入り口でなければならない。神はこの世を打ち砕き、それを、愛する者たちのために、再生したもうのである。

 したがって、復活は、あらゆる永遠的な決着の実現へのかぎである。それは手段であって、終わりではない。現在のように弱く罪深い血肉が望むことのできない、神の完全な啓示を、受けることができるように、私たちを備えてくれる一つの方法なのである。

2024年5月12日日曜日

また会う日まで、ミンヘンママ

昨日、浅間山の麓、長野県御代田町で、この5月5日、94歳で召されたミンヘン・ベックママのお別れ会がありました。以下の文章は、そのお別れ会の席で、遺族のお一人で六人姉妹の末娘にあたる方が述べられたものです。お読みください(※)。

 パパやママや私たち家族のために祈っていただき本当に感謝します。祈りに支えられてここまで来たのだと思います。ママと八年近くいっしょにいたので今はとてもさびしいです。

 このひと月食べなくなったりして、私たちはびっくりしていました。私はもうちょっといっしょにいたい。でもイエス様が身許へ連れて行きたいのなら、私たちに力と慰めと平安を与えてください、そしてママが天国へ行ったことを心から喜ぶことができるように、助けてください、と祈っていました。ママは何回もいっしょに祈ってくれました。

 最後の夜も一生懸命に祈ろうとする姿、言葉を出そうとしても言える力がありませんでした。それで、私もイエス様の十字架、罪の贖いについて感謝し、天国への希望を感謝し、イエス様がお迎えに来てくれるのを待っています、と祈ったら、軽くうなづきました。

 イエス様にベックママを、私のお母さんに与えてくれて、心からありがとうと言いたいです。特別、それぞれママが主と隣人に仕えたように、私も主と隣人に仕えたいです。ママは人を見ないでイエス様しか見ない人だったと思います。この最後の1日は、この地上がもうどうでもいい、目に見えないもの、天国だけを目指そうとますます願うようになりました。

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。(新約聖書 2テモテ4章7節)

 本当にそういう人生を歩みたいです。本当に両親に心から感謝しています。

母の日にちなんで、こんな母娘の関係を持つ母子って素晴らしいな、と思いながら、お別れ会の録音から思わず聞き取らせていただきました。

※ゴットホルド・ベック夫妻は今から七十年前にドイツから日本に宣教師として来日されました。 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/08/blog-post_23.html

2024年5月10日金曜日

『隆明だもの』(ハルノ宵子著 晶文社刊)

 ゴールデンウィークもあっという間に日が過ぎました。私自身は、いつも通り、日課としている古利根川散策に励むのみで、どこにも出かけることなく、過ごした日々でした。この間にそれまで、その勇姿を見せてくれていた川中の雁も5月2日を最後に、完全にいなくなり、散策の張り合いをなくしていました(※1)。

 そんなおり、土手を歩き続ける私たちの側を、走り抜けて行った一組の父娘の方が印象に残りました。オレンジ色のTシャツを着たお嬢さんと、並走するのはお父さんでしょうか、大変身長のある外国人らしき方のお姿でした。気がついた時には、ずっと遠方に駆け抜けて行ってしまわれ、かろうじてその後ろ姿をこの写真のようにキャッチさせていただくのが精一杯でした。が、この父娘の後ろ姿を見ながら、TVなどで知る行楽地の賑わいぶりと違って、地元でのこんな素晴らしい過ごし方もあるもんだわいと感心させられたからです。

 もちろん、それだけでなく、私はその時、吉本隆明さんの長女であるハルノ宵子さんの著作である『隆明だもの』を読んでおり、その読後感をどのように自分の内側に内面化し消化していったらよいか思いあぐね、かつ願ってもない濃密な父娘関係についても考えさせられていたからです。

 お嬢さんの方では、(多分)高名な父親の呪縛から何とか逃れたいという思いもあったでしょうが、父親の開放的な〈来る者拒まずという〉人柄もあって、吉本家には実にたくさんの有名、無名の方々が隆明氏との交流を求めて次々訪れられ、その現場〈嘘偽りのない人間関係〉の中でお嬢さんは人間心理の裏表を知りながら成長されて行ったようです。

 そこに表現者として、一筋縄では決して行かない人間心理を熟知した吉本父娘の苦闘・研鑽があるのではないかと思わされました。隆明氏についての一連の文章はいずれも、吉本隆明全集の月報に編集者に請われてハルノ宵子さんが書かれた30篇の転載です(※2)。その最後は「読む掟・書く掟」という題名ですが、私にとって感銘を受けた文章でした。それは彼女がまだ無名の漫画作家であるときに、吉本隆明氏の長女であることを、知っている編集者が宣伝文句にしたかったのでしょうか、お父さんに何か一文を寄せてもらったらと言われて、思わず乗ってしまったことの顛末を記した文章です。(同書172頁より引用)

父の文章には、「はたして私は、この世界で娘と出会うことができるだろうか」ーーとあった。氷水をぶっかけられたように目が覚めた。大甘だった。私はこの世界では、まだ無名の一新人にすぎなかったのを忘れていた。ましてや、私が(編集者代わりに)仲介となって、父に文章を依頼するなど、掟破りもはなはだしい。思えば、父からあの言葉をくらったからこそ、私は(かろうじて)この世界で生きていられる。今は感謝しか無い。表現者として生きていく以上、この世界においては、誰に頼ることもできない。1人荒野を歩いて行く、それは途方もなく孤独な旅路なのだ。

 極めて、ストイックな人間の在り方に触れた一文ではないでしょうか。昔、森有正が『バビロンの流れのほとりにて』という作品の中で、自己を問い詰め、問い詰める、思索の中で、突然「娘が自分を余り愛し過ぎないように気をつける」 という意味のことを語っていたのを思い出します。

 考えてみると、冒頭の写真の父娘は肩を並べて、両雄相い並び立つ有様でゴールに向かって走っているかのようです。吉本父娘の間もそうだったのでしょう。そこに表現者としてのゴールを目指して生き抜こうとする姿勢があったことを思います。なお、この本にはもう一人のお嬢さん、吉本バナナ氏と姉のハルノ宵子氏の対談による父親の思い出が丁々発止よろしく、次々語られるものが、ハルノ宵子氏に対する編集者のインタビューと合わせて載せられていました。そして、このお二人の姉妹関係が微笑ましく、吉本夫妻は良きお子さん方を、しかも夫妻自身が奥様は句集を出しておられた俳人だったのですから、表現者としての十分なDNAが今も受け継がれているのだと思わされました。

 私にもちょうどこの姉妹と同じように年恰好の違う娘が二人いますので、吉本姉妹の父親母親を見る目から、普段何気なく接している親子関係をも振り返る良い機会となりました。こんなふうに書いてはいますが、実はこの本も図書館で数多(あまた)の予約者の順番を経て手にした本でした。図書館のおかげでこうして様々な本を読ませていただく恵みを感謝するものです。なお同書にはハルノ宵子氏の本職である挿画イラストが随所に載せてありますので、それも十分見応えがあります。私のように図書館に予約してお読みになってみられればいかがでしょうか。

※1 すっかりいなくなったと書きました雁(鴨)ですが、昨日(5/9)散歩していて、一羽見ました。まだいるんですね、少し嬉しくなりました。「ひとりでどうしたんだ!」「はぐれたの?」私たちの会話でした。

※2 三十本の月報記事は、言うまでもなく、その全集が30巻から成り立っているということです。ちなみに、30篇の月報の題名(下線部は別のものからの転載)を以下書き写しておきます。内容が何となくお分かり願えるんではないでしょうか。

じやあな! 父の手 eyes 混合比率 ノラかっ 党派ぎらい 蓮と骨 あの頃 小さく稼ぐ めら星の地より お気持ち ヘールポップ彗星の日々 ギフト 空の座 花見と海と忘年会 '96夏・狂騒曲 幻の機械 魂の値段 境界を越える ボケるんです! 非道な娘 片棒 銀河飛行船の夜 蜃気楼の地 Tの悲劇 孤独のリング 科学の子 形而上の形見 一片の追悼 手放す人 悪いとこしか似ていない 読む掟・書く掟

詳しくはhttp://www.yoshimototakaaki.com/

見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(旧約聖書 エゼキエル書18章4節)

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(新約聖書 ピリピ人への手紙3章13節〜14節)

2024年5月9日木曜日

認知症基本法元年


 いつのまにか、四月が過ぎ、五月もあっと言う間に、10日ほど経ってしまいました。この間、ブログからすっかり遠ざかってしまいました。決して書くことがなかったわけではありませんが、中々文章を公開するまでには至りませんでした。

 昨日は雨でしたが、買い物に出かけたスーパーの入り口付近で、滑って転んでしまいました。どのようにして転んだのか、今もってわからず仕舞いです。同行者の家内に聞いてもよく分からないと言いますし、もはや家内は2分前のことは覚えていず、しばらく経って「滑って転んだんだよ」と言っても、もう記憶には無いようです。まして、側にいたのだからどのように倒れたか、客観的にわかるであろうと水を向けても、取り付く島もありませんでした。幸い、膝を強く打っただけで、いわゆる「打ち身」の症状で済みましたが・・・。

 よく、ご老人が階段から落ちて怪我したとか、転んで大腿骨骨折したとか聞きますが、いよいよ自分にもその番が回ってきたようです。考えてみれば、、5、6年前にはバスから降りる時、足がついて行かず、縁石に顎をぶっつけ顎骨折という大怪我を経験しましたし、その後も夜道の暗がりに蹴躓いて倒れ、その時は唇を切ってしまいました。また雨の日に歩いていてコンクリート面が滑りやすくなっていて、そのまま、滑って尻餅をついたこともありました。

 昨日の些事はこうして都合、四回目になります。いよいよ家内も当てにならず、自分のことは自分で責任を持たねばならないと思わされました。もっとも一人ではなく、全能の主が背後ですべてご支配していて、導いて下さっているのですから、安心して主の道を歩みなさい、との御声を覚える者です。

 今日の写真は野薔薇を載せました。古利根川の散策の中、河岸で目にした花です。花々に無知で不案内の私は、家内にいちいち「何の花?」と聞くのが常套手段です。すると、どうでしょうか。あれほど認知機能の衰えている家内は「野薔薇よ」と言って、早速「童(わらべ)は見たり、野なかの薔薇・・・」と歌ってくれました。私にとっては、昨日の出来事とは違ってまったくもって、もったいない伴走者と言わざるを得ませんでした。

 時あたかも、昨日厚生労働省が発表したとおり、今後超高齢化社会の中で三人に一人が認知症を患うと予想しました。「認知症基本法」が1月に施行され、個人としても家族としても国としても待ったなしですね。

 何日か前、吉本隆明さんの長女であるハルノ宵子(※1)さんの著作である『隆明だもの』を読みました。往年の吉本ファンであった私にとっては垂涎の書でありました。しかし、意外や意外、私にとっていま一番印象に残っているところは「ボケるんです!」という題名で父親隆明氏について触れている文章ですが、ついでに母親について述べた次のような件でした。同書88〜89頁より引用。

老人のボケは、一人ひとりまったく違う。がん細胞が、まったく千差万別なのと同じだ。他人と同じ過程をたどることは決してない。つまりエビデンスは、あくまでも参考でしかないのだ。母は元気な頃は、けっこうキツイ人で、父はよく「お母ちゃんは他人に優しく家族にはキビシイ」とこぼしていたが、ボケるにしたがって、角が取れてきたのは意外だった。もちろん1日のほとんどをボーッと眠りがちで過ごしていたし、2、3分前に言ったことを忘れたりはしていた。しかし、その場の会話は一応成立していた。一緒に動物番組などを観ていると「カワイイわね」と言ったり、深海生物には「あんな所に生まれなくて良かった」などと言っていた。かなり理想的なボケ方だったと思う。

 もちろん、この引用は『隆明だもの』の本質部分を全部網羅しているわけではありません。しかし読者というものは、得てしていつも自分の問題に引き寄せて読むのではないでしょうか。逆に言うとそれに十分答えられる本が最良の本と言えるのではないでしょうか。そう言う意味では私の吉本観(※2)はこのお嬢さんの書かれた本でも崩れず、ますますそうだったのだと確信するばかりでした。

 隆明氏亡き後、お嬢さんを通して、私どもの老後の世界にヒントとなることを垣間見させていただいたことは、私たち夫婦の今の有り様にとり、大いに益になりました。

※1 表現者を父に持った娘さんもまた表現者であることの複雑さがこの本には満ちていました。土台、この「ハルノ宵子」という筆名は、立派な父親を持つ娘さんの苦肉の策であったようです。何も知らない私は、何と人を喰ったペンネームとばかり思っていましたが、そこにはユーモアで受け流そうとする出発点がすでにあったようです。「春宵一刻価千金」という言葉があるようですが、「ハルノ」は「春の」に通じますし、「宵」とはまさに、その春と一緒になって「春宵」です。しかも「宵」は「よい」にも通じて、「よい子」です。日本語は何と融通無碍なんでしょうか。

※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/05/blog-post_30.html

昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。(旧約聖書 申命記33章27節)