2012年11月4日日曜日

三泊四日(起)

 10月31日から11月3日まで、三泊四日で病院内で過ごした。ほぼ40余年ぶりだった。鼠蹊ヘルニア(脱腸)の手術であった。身近にいる家族が知っているだけで遠くの家族には知らせず、もちろん友人たちにも知らせず最小限に留めた。今までもまわりで何人かの方々が手術され良くなられた話を聞いていたので不安感はなく、不必要な心配をされても申しわけないと思ったからである。

 病院にはここ数年、健康な者として、お見舞いに出かけるばかりで、自身がベッドに横たわる経験をしていなかったので、そういう意味では久しぶりに貴重な経験となった。四人部屋であったがそれぞれカーテンで仕切られており、中々同室の人の姿はわからなかった。ただベッドから響いてくる声で、どういうお方か想像するしかなかった。大体、奥様が付き添われ、話しかけられる。それにベッドの亭主が応答するという構図が四様ともあった。しかしこうなると日頃の亭主関白ぶりもどこかに吹っ飛んで、甲斐甲斐しく優しく見舞う妻たちに頭が上がらないのはいずこも同じだった。

 手術そのものは全身麻酔で多分30分程度で終わったのでないか。眼の覚めた時にはそのまま病室に運ばれ、6時間安静で点滴を24時間受けた。苦痛と言えば術後の傷口の痛みと点滴による排泄作用の調整であった。傷口は体の全く一部に過ぎないのに、全神経を統率するかしらである頭は、痛みを一手に引き受けて、あれやこれやと考える。キリスト者としては月並みな表現になるが、言うまでもなくキリストのからだである教会とかしらであるキリストとの一体性をじっと噛み締める実物教育だった。

キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられる(新約聖書 エペソ5・24)

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12・27)

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。(1コリント12・18〜19)

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(1コリント12・26)

 そして何よりもどんな痛みも主イエス様が負われた十字架の痛み苦しみに比べれればものかは、しかも主イエス様はこの弱い私のためにもともにいて苦しんでいてくださるという信頼・安心感に満たされた。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(旧約聖書 イザヤ53・4〜5)

 病室内では二冊の本と聖書と「日々の光」それにiPhoneを持ち込んだ。時間や痛みを持て余す時はメッセージや証しをお陰で何本も聞くことができた。しかし二日間は自身のことで精一杯で、三日目になってようやく同室の患者さんたち(私よりはるかに重度のお苦しみをもって病と闘っておられる方々)を思うことができた。それは何のために今自分がここにいるかという、主なる神様のご計画を思うことができたからである。

 このご計画は三日目、四日目と退院の時間ぎりぎりまで、さらにはそれを越えて文化の日の丸一日へと一気に明らかになって行った。

2012年11月3日土曜日

あなたは何に価値を置くか?

見渡す限り続くぶどう棚 ドイツ国内 2010.10
東京名物神田古本市も間もなく終了することだろう。開催中、一日短時間だが覗いてみた。やはり残念ながら私の欲しい本は一冊もなかった。一軒だけ神田で有名なキリスト教図書を扱う本屋も覗いてみたが、無いことはないが、極めて微々たるものだ。その上、この書店は高いので有名だ。だから手出しはしない。ところがキリスト教古書を目録で送ってくる別の書店のものが今日届いた(内訳1040冊)ので、目を通して見たが、やはり物の見事に一冊も無い。こうなると私が求めているものが間違っているのか、一般にキリスト教徒と言われる人と基準が違うのであろう。

ただ一つだけその間の事情を説明するかのような鍵になることばが聖書にある。

家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。(新約聖書 1ペテロ2・7)

このみことばは旧約新約にともに出てくる大切な表現である。捨てられた石はイエスさまを指す。多くの方がキリスト教書で求められるのは学問的な裏付けのあるものや、無教会を標榜する内村鑑三関係のものであったりする。こういうものは神田古本市にも存在する。そして需要が多いだけに値段も結構いい値段をつけている。でも普段よりは安いから人々は買って行く。しかし私の求めるものは、学問でもなく、信仰する人たちの社会的立場が信仰の根拠となる書かれた人を当てにする本ではない。あくまでも捨てた石であるイエスさまをはっきり証しする本である。これらは人間が捨てるものである。だから見つからないのは当然と言えば当然だ。見つかる場合にはそれこそ需要は少ないから二束三文の形で手にし、私のような者はその僥倖にあずかることとなる。

数年前、そうして手にした『暁の待望』という小冊子(多分10円か、50円だったと記憶する)の一文を下に紹介する。

一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。(出エジプト29・39、42)

朝に献ぐる常燔祭なる燔祭(民数28・20〜23)のほか献ぐる罪祭はただキリストのみのひな型であります。また、感謝祭は私どもと私どもの神に献ぐる物とに関した意味を持つのでありますが、燔祭はキリストと私どもと両方に関わった意味を持っておるのであります。

燔祭の取り分けきわだった点は、それが全部祭壇の上にのせられ、その全体が火となって神の聖前に昇り往く点にありました。他の祭物は時折携え来られたのでありますが、朝の燔祭は日毎、携え来らるべきでありました。それがその一日の神への奉仕の始めであったのであります。

しかしてクリスチャンもまた、毎朝、その燔祭を携え来るべきはずであります。どういう意味でありますか。即ち、毎朝、己が罪のために献げられし神の小羊に眼をそそぎつつ神に近づき来ります。また、いかにイエスが自らを全き燔祭として神に献げ給いしかを眺めつつ、自らもまたかくなすべきであることを学ぶのであります。

私どもはその死においてキリストと一つであります。また私どもの生涯も主のそれの全き模倣でなければなりません。しかも同じ霊は私どもの衷にも宿り給います。さればこそ私どもは、キリストの功ある壇の上に、神に悦ばるる聖き活ける祭物として自らを横たえて神に献ぐるは当然のことであります。すなわち自らを全く神にまで犠牲となし奉るのであります。

クリスチャンよ! 毎朝この犠牲を成し果たすは大なることであります。栄えあることです。福祉なる一日の秘密であります。御霊の火はかかる犠牲の上にこそ降りたまいます。心を静め、ただ我一人ある中に、充分時を取ってついに内心に確かめられなさい。『わが祭物は壇上にあり、聖父は悦びてこれを受け入れ給う。火はこれを焼き尽くしたまえり』と。

以上が私の価値とする文章である。この小冊子はアンドリュー・マーレー(1827〜1917)が召された後の最初の刊行物The Morning Watchの小島伊助氏による昭和8年(1933年)の邦訳である。文体が古めかしいので、捨てられたのだろう。しかし私は親しいある方から長い文章とともに「私たちに出来ることはただ憐れみを受けること、憐れみを受けることだけです」とメールをいただいた。上述の文章は憐れみを受けた者だけが文体は古めかしくも価値あるものとみなす文章でないだろうか。このような文章が全部で30個ある。おいおい紹介することにしたい。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。(1コリント1・27〜28)

2012年10月31日水曜日

単純かつ明白なわざ

クリスチャンのまずなすべき仕事は、だれの場合であっても、祈ることです。単純、明快です。ところが、ただ祈るだけでは足りないのではないかとわたしたちは思ってしまいます。神のためになにか大切なことをしたい、神にとって大切な人間になりたい、と思うのです。なにかを建設したい。人々を動員したい。わたしの力を示したい。影響力を行使したい・・・。そういったことに比べると、祈りはいかにも小さいことに思われるのです。ほとんど目にもつかない、小さいことに思われてしまいます。

けれども、イエスはそうは言われませんでした。イエスにとって、祈りはすべてでした。特権であり、同時に義務でした。責任であり、しかも権利でした。

祈りを最後の手段と考える傾向が、わたしたちにはあります。しかしイエスはそれを「戦い」の第一線に置くよう望まれました。ほかにどうすることもできないときに、わたしたちは祈ります。しかしイエスによれば、何をするよりも先に、まず祈るべきなのです。大部分の人は、すぐに結果を見ることができるような何かをしたがります。神にとって最もふさわしい時に、神が解決してくださるのを、わたしたちは待ちたくありません。神にとって「ふさわしい時」というのが、わたしの考えるふさわしい時と、あまり合わないことが多いからです。

そこで、わたしたちは神のお手伝いをしたがります。時には自分の祈りに自分で答えようとさえします。たくさんの人の目に神がよく映るようにすることができれば、もっと多くの人がクリスチャンになるのではないか、というようなことを考えます。そこで、神は祈りに答えてくださるということを証明して、神が寛大であられることを、人々に納得させようとします。神のイメージがもう少し立派なものになるよう手助けをすれば、もっとたくさんの人々を神の側に勝ち取ることができるのではないか。そして、神はそのことをわたしたちに期待していらっしゃる。そうではないか。

いいえ、そうではありません。神がわたしたちに期待していらっしゃるのは、祈ることです。いつでも祈り、そしてすべてについて祈るのです。喜びの時も、悲しみの時も、です。神について語るのではなく、神に向かって語りかけることを求めておられます。神のことを未信者に話すよりも、その前に彼らのことを神に語ってほしいと、神は思っておられます。

祈りは神がわたしたちに課しておられる日課ではありません。わたしたちのなすべき仕事です。なすべきただ一つの仕事です。祈りはわたしたちの聖なるわざです。単純で明白です。

(『「祈りの時」を変える黙想』のはしがきより。)

朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。(ルカ4・42、5・16)

2012年10月30日火曜日

あなたは主の全能の力を心ゆくまで体験しているか

ボーデン湖畔をミュンヘンへ向け走る 2010.10.12
今から18年前の10月のことであるが、私にとって印象深い「祈り」がある。それは日本人が大挙してドイツに出かけ、ミュンヘンからドイツ南西部の宿舎まで長時間のバスに揺られやっと到着した時のことである。長旅ののち全員は旅装を解くのももどかしく、興奮冷めやらぬ中で歓迎してくださった多くのドイツ人の方々とともに食事の席についた。その歓迎晩餐会の冒頭に祈られた短い祈りの言葉である。

「愛する主イエスさま。私たちはこの集いの期間を通して、あなたをよりよく知ることができますように、御名によって祈ります。 アーメン」

であったように記憶する。もちろんその他の言葉もあったであろう。しかし今となってはそれらはすっかり忘れてしまい、この祈りの言葉が今も私の耳朶に残るすべてとなっている。それは、私にとって、その方の祈りの眼目が主をよりよく知ることであったことに内心驚かされたからである。そこには人間的な矜持が一切なかったのである。ましてやそのように祈った当のドイツ人宣教師には、自分の手柄が功を奏して大挙せる日本人を連れてきたと言うような、自己満足的な思い、自己を誇る思い、故郷に錦を飾るという思いはいささかもなかったのである。

こんなことを思い出したのは、昨日に引き続いて引用するオズワルド・チェンバーズの本の中に酷似した文章が記されていたからである。題して

「祈ったことの結果として、今週わたしは神について何を学んだか。」

である。以下オズワルド・チェンバーズは次のように言っている。

祈り求めることについての重要な点は何かといえば、神をよりよく知ることができるようになるということに尽きます。

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(旧約聖書 詩篇37・4)

神ご自身を完全に知ることができるようになることを求めて、祈りつづけなさい。

倫理的な貧しさのどん底で、祈り求めたことがありますか。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら・・・神に願いなさい」(新約聖書 ヤコブ1・5)

しかし、確かに知恵に欠けていることを、あなたは認めなければなりません。自己満足に陥っているときは、現実に直面することができないものです。

わたしたちがほかの人のために祈るとき、神の御霊はその人たちの無意識の領域に働きかけてくださいます。わたしたちのまったく知らない領域、わたしたちの祈っているその本人自身も、まったく知らない領域です。しかし時が経つにつれて、その人の意識した生活に、不安と心の乱れのしるしが見えはじめてきます。これまでは、自分が疲れ切ってしまうまで、その人に話しかけてきたのに、なかなか思うようにいきませんでした。失望してあきらめていたのです。しかし、もし祈りつづけているならば、ある日、その人と出会って、その人の心がやわらかくなっているのに気がつきます。質問をしたり、なにかを知りたいという願いを持っているのがわかります。そのようなとりなしこそ、悪魔の国に最も大きなダメージを与えるものです。最初の段階では、それはあまりにも目立たない、弱いものかもしれません。

もし理性が聖霊の光に照らされなかったならば、わたしたちはそのような祈りをしなかったことでしょう。しかし新約聖書が最も強調するのは、このような種類のとりなしです・・・あまり大げさに取り上げてはいけませんけれど。わたしたちは祈ることができるし、祈るといろいろなことが起こると考えるのは、愚かに見えるかもしれません。だが、どなたに向かって祈っているのか、思ってもみてください。わたしたちが何一つ知らないような、人格の最も深い所にある無意識の世界を理解してくださる神に、祈っているのです。その方がわたしたちに、祈るようにと命じられるのです。

(引用文は昨日に引き続いて『「祈りの時」を変える黙想』オズワルド・チェンバーズ著棚瀬多喜雄訳65〜66頁より)

そして、このオズワルド・チェンバーズの本を読むにつけ、冒頭ご紹介した祈りは、18年後の今日、主との交わりのうちにすべてを披瀝する、全能の神様に心から感謝する何よりも信頼の祈りであったことに気づかされたのである。

2012年10月29日月曜日

人にとってもっともたいせつなこと

鳩の降りた日 吉岡賢一画
今日(きょう)わたしたちがどんな気分でいるかということで、神はわたしたちをさばかれるのではありません。さばきは、神との生きた交わりをどのように持っているかによるのです。わたしたちが何を見ているかによってさばかれる、と言ってもいいでしょう。自分の良心の光に従って生きてきたかどうかによってさばかれるのではなく、イエス・キリストという光によってさばかれます。

「わたしは、世の光です」(新約聖書 ヨハネ8・12)

もしイエス・キリストを知らないと言うならば、それはわたしたちの責任です。イエスを知ろうとしなかったということです。ほんとうのところ、イエスが生きてそして死んだのかどうか、あるいは何かをしたのかどうか、そういったことがわたしと関わりがあると、わたしは思っているでしょうか。

多くのペテン師がいることは事実です。けれどもほんものがなければ偽物もありません。イエス・キリストは作り話でしょうか。いいえ、とんでもありません。この方によって人間がさばかれるのです。

「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した・・・からである」(ヨハネ3・19)

わたしたちは、いま持っている光によってさばかれるのではなく、自分が受け入れようとしなかった光によって、さばかれます。そこにあるのに、それを見ようとしないならば、その責任を問われるのです。

一度イエスとお目にかかったならば、その人は以前と同じままではいられません。不滅の瞬間、つまり神の光を見るというその瞬間を、どう受け取るかに、わたしたちのさばきはかかっています。

(『「祈りの時」を変える黙想』オスワルド・チェンバーズ著棚瀬多喜雄訳42〜43頁より引用。東京で行われた二紀展は今日が最終日であった。吉岡さんから招待券をいただいていた。数日前から始まっているのにこれまでうっかりして行けなかった。今日念願が果たせた。ひいき目に見ている所為なのか、一番この作品が良かった。それにしても、もし招待を受けているのに行かないでいたら、どんな顔して吉岡さんと相対すれば良いのだろうか。人間同士でもそうなのに、ましてやイエスさまが招いておられるのにそれを断り続けていたとしたら、またイエスさまの光のうちを歩まないとしたら、私たちはイエスさまにお会いする時何という申し開きができるのだろう?)

2012年10月27日土曜日

『カラマーゾフの兄弟』雑感

ざくろジャム
小さな子どもにとって、三代にわたる親子関係は不思議に見えるらしい。先日も家内が小学校1年生になる女の子と買い物に行った時であったか、道中自分の父親を指して「アンタの息子でしょう」と言ったそうだ。その時の話題が父親をほめてのものだったか、それとも父親を批判してのものだったか、その内容は聞かずじまいだったが、家内はすかさず「アンタのパパでしょう」と言い返したので、孫はギャフンとなったようだ。
ざくろの木

しかしこのことは、親から自分が生まれたのは分かるが、その親がまた自分と同じようにその親から生まれた存在であることを思い、親を子として眺める相対化の視点を持とうとしていると言えなくもない。家族生活において相対化は中々訪れないが、社会生活における他者との関わりは絶えざる相対化の過程の繰り返しだ。

先頃、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を一週間ほどかかって読み終えた。読み終えたと言った代物ではない。余りにも、重層的な話の展開で一つ一つの会話の内容の字面を追って行くのが精一杯でどこまで理解できたかもちろん心もとない。でもそんなことはどうでも良くなって行く、手に汗を握る話の展開である。人間生活の家族内の葛藤、そしてそれにお金がつきまとうと言う根源的なことがテーマであるからである。しかも父親殺しが、すべての証拠から見てほとんど真犯人と思われている長男ドミートリ—は本当は犯人でないことが読み進めて行くうちに明らかになる。

けれども陪審員の判断はドミートリーの有罪に旗をあげる。その矛盾、結末も明らかにならぬまま、最後の短いエピローグで話は末息子のアリョーシャと年少の子どもたちが未来に希望を持ちながら、しかもそれはどこまで確かか分からないがとにかくよみがえりのいのちにあずかるという形で終わる。

今回、そもそもこの本を読んだのは年若い友人からその中の「大審問官」の話を聞いたことがきっかけであった。その話は大変興味をそそる話であった。次男イワンの創作話である。しかし私には全体の中からどうしてもそれを位置づけたかった。それで無理を承知で読み始めたわけである。読み進むにつれ、人間精神の複雑性と奥深さに終始心が揺さぶられた。自らの無知も自覚しないまま断定的にものを言い、人を傷つけている存在者である自分に気づかされたことは大いなる収穫であった。

ただ、果たしてドストエフスキーが主にある信仰を確かに獲得していたキリスト者であるかは、大方の方々の結論、すなわちドストエフスキーはキリスト者であるという結論は私にはにわかに断じがたいと思った。(下記に記す聖書の最初の言葉は『カラマーゾフの兄弟』の見返しに著者が引用しているみことばである。その後に記すのは私がドストエフスキーは確かにキリスト教的であるかもしれないが、キリスト者であるか疑問を抱くドストエフスキーのエピローグに対置したいみことばである)

今回、好評を呼んだ亀山さんのものを購入し読んだ。文庫本で、5巻本だがそれぞれにしおり、巻末解説があり十分堪能できる作品となっている。しかも亀山氏の解説によるとこの小説は未完でどう考えても第二部の小説が著者によって予定されていたが、それが著者の死によって駄目になったと言う。かつて小説というと夏目漱石どまりであったが70にも手の届く段階で、このような作家がロシアにいることを知ることは驚異的な思いがした。と同時にロシア社会における風土と民族性はやはり日本人とは全く別次元の社会であることを思わされた。(日朝関係、日中関係、日露関係、日米関係の調整に戸惑うのはある意味で当然のような気がする)

大学二年生の時だったか、田舎の本屋で当時手に入らなかったドストエフスキー全集が陳列棚の上に埃をかぶってしかも箱がこわれているがほとんど揃っていたのを買い占めたことを思い出す。しかし今手許に残ったのはわずか『作家の日記』上下二巻だけだ。過去、ひとかどのドストエフスキー通のつもりでいた。しかしいずれも人々のドストエフスキー論を紐解いただけで自ら一冊の本も完読していなかったのである。長年の責務を果たした思いである。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(新約聖書 ヨハネ12・24)

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。(黙示録21・2)

2012年10月25日木曜日

御救いをお示しください!

2012.10.19 修善寺から見上げる富士山 by M.Miyashiro
「救い」とは何でしょうか。「救い」とはいったい何をもってあなたは「救い」と考えるのでしょうか。

昨日の家庭集会である方とのお交わりの中で自然と胸に突き刺さって来た自らに対する問いと答えであった。「救い」とは多くの場合、自分の遭遇している状態(ある場合には逆境と言ってもいいかも知れない)が何らかの意味で改善することを意味している。確かに自分の今置かれているそのような有難くない状態が改善されることは本人にとっても周囲の者にとっても救いになることは間違いない。

しかし聖書が指し示す救いとはただそれだけだろうか。あるいはもっと突っ込んで言えば本当にそうなのだろうか。お話している間に全くそのようなことに尽きないことを悟らされた。またその席上での敬愛する兄弟のメッセージでは生まれながら盲目に生まれついた人がその原因を捜す、「犯人探し」が人間のなすすべてであるが、イエスさまは犯人探しより、もっと高次元の盲目であったその人自身の霊の眼を開いて下さる方であることが熱心に語られていた。

それに呼応するかのように、私もまたそのお交わりしている方に熱く、「救い 」は私たちが頭を下げて主のご主権を認めること、主イエスさまの身元に来るだけで「救われている」ことを確信できる性質のもので、それは私たちの待遇改善を必ずしも指すのでなく、それ以前に私たちの罪そのものの解決が主イエスさまの十字架の犠牲の死によって清算されている、それが「救い」ですとお話していた。果たしてこの私の考えは皆さんに納得していただけるものだろうか。

ところが、これからご紹介するヴィルヘルム・ブッシュ氏の霊想の今日の箇所のメッセージはまさしくその間の事情を直裁に示すものと思った。以下、いつものように抜粋させていただく。

人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。(新約聖書 ローマ3・28)

1915年、血気盛んな若者であった私は、軍隊に入れられました。当時は服装の規則が非常にやかましくて、街などで上官に出会うようなことがあると、全くあわててしまうのでした。つまり最初に反射的にすることは、帽子をつかんで、まっすぐにかぶり直し、あごひもをキュッと引っ張り、大急ぎでコートのボタンが全部かかっているかどうかを調べる、ということでした。

人と話をしていて、神の御名が口にされる瞬間、私はいつもこのことを思い出させられます。人は突然に初年兵のようにしゃちこばってしまいます。そして言います。「私の人生はきちんとしています!」と。時々は教会にも行くんだ、と力説します。数々の善行を話してくれます。つまりは、神の御前で身構えて見せるのです。

さて、聖書はそれに対して「なんとこっけいな空騒ぎかね。神には、我々の生涯がありのままに見えているのだから」と言います。そしてまた、「安心して自分自身に絶望しなさい。神の御前には、いずれ立てないのだ。だから神の御前で身構えるのはやめなさい。あなたが失われた者であることを、神はずっと以前からご承知だ」と語ります。

「自分自身に絶望せよ!」これは難しいことです。しかし、もし我々が真理を尊重するなら、神の御子の十字架を顧慮することはなんでもないことです。そして、そうするなら、このお方こそが、我々を神の前に「義とする」のだ、と悟ります。

聖なる、妥協なき神に、我々が何者であるか、また、何をしたか、ということで、取り入ろうとしてもむだです。しかし、もし—聖書の表現によると—我々がイエス・キリストの正義の外套をまとうなら、神に喜ばれるのです(イザヤ61・10)

主よ! この目を開いて、自分自身を見させ、あなたの御救いをお示しください。
                          アーメン

(引用箇所は『365日の主』301頁10月25日より)