愛するMさん。ご結婚おめでとうございました。お父様が土曜日の結婚式に出るために点滴で体調を整え、その時に備えられているとお聞きしておりましたので祈っておりました。昨日いただきましたメールによりますと、父上の体調が許さず、病院前であなたの花嫁姿を見せることが精一杯だったことを知りました。けれどもあなたの心は充分満たされ、ご親族同席のうちに心暖まる、温かい結婚式だったと知り、大変嬉しく思いました。
今日はあなたも一年半ほど前、お父様の病室でご一緒に会われたことのあるベックさんが10年ほど前ある新郎新婦のために結婚式で語られたメッセージを抜粋して載せさせていただきます。お読みくだされば幸いです。
結婚は幸せのためであるべきです。けれども、どうして多くの結婚が不幸な結果になってしまうのでしょうか。それはいわゆる快楽原理が中心になって自分の快楽だけを求めているからです。結局、自分のことを大切にしてしまうからです。ただ自分のことばかり考え、相手がどのような気持ちでそれを受け止めているかについて考えない人は問題です。自分や相手を不幸にしようと思うならば、自分のことだけ考えればいいでしょう。
結婚生活は、確かに一人のときほど簡単なものではないでしょう。なぜなら、あらゆることにおいて二人の思い、二人の考えが出て来るからです。生まれつきの自己愛からほんとうの愛が生まれるために結婚生活がある、と言えるのではないでしょうか。ですから、ほんとうの結婚生活とは問題のない結婚生活ではなく、その問題を絶えずイエス様によって解決してゆく結婚生活です。聖書に次のように書いています。
何よりも互いに愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(新約聖書 1ペテロ4:8)
もちろん、自分のちっぽけな愛で愛せよではなく、イエス様の愛をもって愛し合いなさいということです。イエス様の愛を経験した者はほんとうの意味で愛することができます。
また結婚生活の愛の標準として聖書には次のようなみことばがあります。
キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。(エペソ5:25)
このことを聞いて「はい、かしこまりました」と言うのは簡単ですけれど、現実の問題としてはちょっと難しいのではないでしょうか・・・・。多くの人々は聖書を誤解しています。なぜならば、ああしなさいと書いてあるから、ああしなくてはいけないのではないかと、みな思っているのです。こういう人々にとって、聖書は一つの教科書のようなものですが、ほんとうは違うのです。
もちろん、聖書はそれだけではなく、「あなたの敵を愛せよ。」と言っています。でもそんなことはとても誰にもできません。もし誰にもできないのなら、どうしてそんなことが聖書に書いてあるのでしょうか。それは守るためではなく、破るためです。神はそれが人間にできないことをおわかりになっているのです。わかりたくないのは人間です。傲慢な人間です。
ですから結婚するお二人が「イエス様、私たちは二人とも今までわがままでした。現在もそうです。将来もそうでしょう。けれども、あなたはだめな者を捨てないお方ですから、ありがとうございます。どうぞこれからもよろしくお導きください。」という態度を取れば、イエス様は確かに導いてくださいます。そしてあなたがたの力となり、心の拠りどころとなってくださいます。
先ほどの聖句に「キリストが愛したように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」とあります。これはどういうことかといいますと、ほんとうの献身です。他人、すなわち相手に対する全き自己否定であります。自己否定と献身、これこそが愛するお二人の結婚の特徴となりますように。ほんとうの愛とは自分の幸せではなく、相手の幸せを願うことです。相手のために自分自身をささげること、自己犠牲を喜んですることです。真実の愛とは、相手が喜ぶことを喜ぶことです。
聖書は主なる神の秩序について次のように言っています。
すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男である。(1コリント11:3)
この秩序こそ祝福された結婚生活の秘訣です。この主の秩序を正しく守る者は間違いなく祝福されます。もちろん、男が自分の意思、自分の理性を主なる神のみこころに従わせるということは決して簡単ではありません。ほんとうはおもしろくないことでしょう。けれど、それだけではなく、女が自分の意思や感情を男の意思に従わせるということも、同様に簡単ではありません。けれども今の世の中はいったいどうなっているのでしょうか。男が主なる神を恐れず、主に逆らい、女が男に従おうとせず逆らい、そして子どもが親に逆らうということになっているのではないでしょうか。ですから人間は悩む者になってしまったのです。
女のかしらは男である、と聖書は述べていますけれど、夫婦の関係は決して上下関係ではありません。夫が生活の主導権を持っているということに過ぎません。これは特権なのか重荷なのかわかりませんけれど・・・・。自分はいつも正しいと思い込んでいる人は結婚しないほうがいいでしょう。何かがあって二人の間に重苦しい空気が流れるようなときは、「悪かった、ほんとうにすまなかった。」という一言を言うことが大切です。
最後に有名なドイツの最初の総理であるビスマルクが妻に宛てた手紙をもって私の勧めを終わりたいと思います。非常にすばらしい手紙です。ビスマルクの告白でもあり、また証でもあります。
「私はおまえを主にあって心から愛するために結婚した。私はこの世にあって外で冷たい風が吹き、凍りつくような寒い晩などに、暖炉の火が赤々と燃えている暖かい我が家を心から切に求めたがゆえに、おまえと結婚した、と言ってもいいだろう。私は暖炉のように暖かいやさしい心を持ったおまえを大切にしてゆきたいと思う。そのために私は、そのかまどの中に木の枝をくべ、火が消えないようにするために、あらゆる悪からおまえを守り、小さなともし火が風に吹き消されないように、一生懸命になりたいと思う。というのは、主イエスのあわれみを除いては、おまえの愛よりも尊いものはないからだ。」
(写真は、昨年12月次男の西軽井沢国際福音センターでの結婚式で、新婦の友人が撮影されたものを拝借させていただきました。)