サー・W・エドマンド・アイアンサイド将軍は、エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエによってある時、信仰の欠如を責められた、すばらしい物語を語っています。それはイタリア軍がエチオピアを占領していた時のことでした。皇帝はイギリスに亡命して暮らしていました。将軍はハイレ・セラシエに、その廃位をめぐる痛ましい状況について語り、「陛下はいったいどうなさるおつもりですか」と尋ねました。
皇帝は将軍の顔をじっと見つめ、静かに答えました、「しかし、神はおられます!」と。
今日の私たちの世界は、疑惑と不信と恐怖のふんい気の中に全く閉じ込められてしまっています。これらは、戦争というたこのような怪物(その怪物の恐ろしい触手は、世界のあらゆる地、あらゆる気候の下にある人々に差し伸ばされ、まといついています)に、一見のがれる道がないほどまでがんじがらめに捕らえられているこの世から生ずる明らかな副産物なのです。もし私たちが物事を人間的な立場から判断するなら、すべては望みがないように見えることでしょう。「しかし、神はおられます」。歴史の中で、聖書の偉大な真理を再調査することが必要な時があります。無限のかたが有限の者を助けるために来られることを学ぶ必要のある時があります。人間的な手段が限界に達した時、神の可能性が始まります。そして私たちは、不可能が神によって可能とされる栄光を見いだすのです。
私たちの神はどれほど偉大なかたでしょうか。私たちは神にどれだけの信頼を置いているでしょうか。神は私たちにとって、生きた輝かしい現実であられるでしょうか。それとも、はるか遠くの天国におられ、ご自分の子供たちの叫びを聞こうとされない神なのでしょうか。
そのようなことは絶対にありません!
私たちが神について確信を持つことができるということを知るのは、すばらしいことです。私たちが信仰のすさまじい試練を通過するように召される時、神の目的と計画の小道において荒れ狂うあらしの中を通り抜けることを神が許される時に、神のご臨在を確信することができるのはすばらしいことです。ひどいあらしが外で怒り狂っている時、信仰は確かなものとされ、ますます輝かしいものとなるのです。
スペインの無敵艦隊に対して、イギリスの敗北は避けがたいように見えました。スペイン王は、イギリス国民を地球の表面から抹殺してしまうと豪語していました。彼の無敵艦隊はいつでも出動できる準備を整えていました。それはまことに暗黒の時でした。「しかし、神はおられます!」 いなずまはきらめき、海は荒れ狂いました。そしてついに、強力な艦隊は、こっぱみじんに粉砕されてしまったのです。イギリスの暗い夜は、神の愛のご干渉によって輝かしい日の出を迎えたのでした。
ナポレオン・ボナパルトは、世界じゅうのすべての軍隊を完全に征服してみせると誓いを立てていました。彼は強大な軍隊を終結しました。キリスト者たちは堅く立って祈りました。神の雨がしのつくように降りだしました。そしてナポレオンは、最初の計画どおりに午前六時に戦いを始めることができず、正午近くなってからやっと攻撃を開始したのです。この遅延によって彼は敗北し、正義と自由が打ち立てられました。
更に、ナポレオンは、五十万のフランス軍の精兵を引き連れてモスクワに遠征しました。大虐殺、大破壊が、世界の土台を脅かしていました。突然、雪の一片が彼のほおをなでました。彼は笑ってそれを払いのけました。十数個の雪片が降って来ました。ナポレオンは再び笑いました。しかし、その笑いは前ほど大きくはありませんでした。あらしはますます激しさを加え、ついに大吹雪が引く続き襲って来るようになりました。兵士たちや軍馬は、この大吹雪の中でもがき苦しみました。そしてついに、五十万のフランス兵が、ロシアのステップ地帯に凍死体となって横たわったのです。
このフランス軍の指揮者は、かつて、「神は最強の軍隊の側におられる」と言いました。彼のこの言葉はまちがってはいません。ただ彼は、神がご自分の軍隊を天に持っておられることを忘れていたのです。
一九四〇年の五月から六月の初めにかけて、三十三万五千人のイギリス軍はダンケルクの砂浜で包囲されました。彼らは地上からぬぐい去られてしまうのではないかと思われました。ドイツの陸軍、海軍、空軍は、これに対して無慈悲に強力な正確な攻撃を加えました。彼らに残されたのは、ほんのわずかな海岸の砂地だけです。たとい天地のあらゆる力を動員したとしても、この人々を救い出すことは不可能であるように思われました。死は確実であるように見えました。しかし、神は霧を送られたのです。霧はしだいに濃くなり、ついに毛布のように撤退地を包みました。こうして全員が無事に救出されたのです。
「しかし、神はおられます!」 神はご自分の太陽を持っておられます。雪を持っておられます。霧を持っておられます。神はすべての環境の主であられるのです。「主の道はつむじ風と大風の中にあり・・・」(ナホム1・3)。
最近の緊迫した事態は、神の子たちのうちにゆるぐことのない信仰を生み出しています。キリスト者の哀れな弱い信仰は、あおられて燃える炎となり、私たちは神以外に助け手のないことを、いやおうなしに知らされています。詩篇の記者であるダビデは、「われらは火の中、水の中を通った。しかしあなたはわれらを広い所に導き出された」※というあかしを私たちに残しました。その場所は神ご自身でした。神を見いだし、神の無限の資源を見いだす時、私たちはすべてを持つのです。
そうです、もし私たちがヨブのように、ただ神の御手だけを見ることができるなら、それは確かに、私たちを悩ます多くの試練から、苦痛を取り去ることでしょう。ヨブは、きらめく剣の背後に神の御手を見ました。いなずまの背後に神の御手を見ました。神があらしに翼をお与えになるのを見ました。彼はそれを、すっかり略奪され何一つ残っていない家の恐ろしい静寂の中にあって見たのです。「主が与え、主が取られたのだ」――これが彼のあかしでした。そして彼は、「主のみ名はほむべきかな」という賛美の言葉を付け加えたのです。
ヨブが灰の中にすわって、「彼われを殺すとも我は彼に依頼まん」と言うことができた時、彼の信仰はクライマックスに達しました。
私たちの信仰が、もうこれ以上耐えられないというところまでテストされる時、私たちは上を見上げ、そして信頼しましょう。そうすれば私たちは、キリスト者であるエチオピア皇帝と同じあかし――「しかし、神はおられます!」というあかし――を持つことでしょう。
(『一握りの穂』原著1955年刊行 松代幸太郎訳1964年13~16頁より。※詩篇66:12。写真は先日義妹の家の庭で見かけた「雅」。「バレリーナ」が画面の左側に咲いており、下にはブルーのイソトマが咲き乱れていた。)
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