何日か前、「養女」を迎え、洋服を着せてやった話をしたが、その後一人じゃ可哀想と言うことになって、にわかに二人の娘が誕生した。今日はお披露目にその写真を撮った。三人の娘はいずれも孫娘の一人一人を頭に思い浮かべて制作された。出来上がってみると、愛くるしくそれぞれの特徴がつかまれているようで楽しいことこの上ない。
目鼻顔立ちとよく言うが、人形も眉毛一つ、目一つで表情が随分と異なるものだ。創造主の足元にも及ばないが、人間は人間で「ホモ・ファーベル(工作人)」である。
最近、我が家では東京新聞の夕刊に連載されているクライマー山野井泰史の生き様がちょっとした話題となっている。他の記事はさておき、その記事に熱中している。現在第43回目になっているが、第32回から11回に分けてギャチュンカンの北壁登頂と下山の詳細が語られている。7500メートルとほぼ4、500メートル手前で奥様の妙子さんがダウン。彼一人登頂に成功する。
以後二人して傾斜60度の岩壁(氷壁)を下山する9日間の極限状態での夫婦共同の死力を尽くした闘いが述べられていく。下山した彼らの手足の指は凍傷のため夫泰史が10本なくなり、妻妙子は残されたのが足の指二本だけというすさまじさであった(もっともこの損傷はそれまでの登頂の結果失った累算がそうなったのであるが・・・)。
いずれにしても常人が想像できない二人の生き方である。山野井氏は言う。
僕は山のことを四六時中考えているんです。だから、いまでもいろんな人と登りますけど、技術はともかく、山のことばっかり考えている人と登るのは楽です。モチベーション低い人と登っていると、山以外のことを考えているのを感じちゃうでしょう。そういうのは嫌なんです。山に行ったら、山のことだけ考えていてほしいんです。・・・・(山に登って)歴史を刻みたいとか、そういうことを考える人もいるでしょうけど、僕はそんな気持ちもない。なんか悲しい言い方になりますけど、たとえ忘れ去られたってそんなにつらくない。忘れられたとしても、僕は楽しく登っているでしょうね。(6月10日夕刊第31回より引用)
妙子は世界でもトップクラスでしょうね。女性としては世界の三本の指に入るし・・・(同上第32回)
差し詰め、彼らは「ホモ・ルーデンス(遊びをする人)」と言うことになろうか。登山家としてすべてのものを失った感がある彼らだが、今日のくだりは第43回「再出発」となっていた。まだまだどんな挑戦が続くのであろうか。当分目を離せない記事だ。
パウロは1900何年か前に次のように言った。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。(新約聖書 ピリピ3:8~9)
山野井氏の眼中には山しかなかった、のに対し、パウロにはイエス・キリストしかなかった、と言うことが明らかであろう。パウロは「ホモ・プレイズ(神を讃える人)」であった。
0 件のコメント:
コメントを投稿