2013年11月19日火曜日

高き所へ向かって(完)

ユングフラウを仰ぎ見て 2010.10.8
彼女がこうして感情を爆発させている間、羊飼いは何か問いかけるような表情を見せていました。それから、ベールをかぶったふたりを見ながら静かに話し出しました。「そうか、喜(よろこび)と平安。それがおまえの選ぶお伴かね。私なら最高の案内人を選ぶと信じて、快く受け入れると約束してくれたのではなかったかね? 今でも私を信頼するかね、恐(おそれ)? このふたりと行くかね、それとも谷間の恐怖家の親族や脅多(きょうた)のもとへ帰りたいかね?」

恐(おそれ)は思わず身ぶるいしました。どちらにしてもぞっとしてしまいます。恐怖こそ彼女がよく知っているものですし、悲しみと苦しみこそは、彼女が最も恐れる体験なのです。どうしてそんな彼女たちと共に行けましょう。ふたりに振り回されてめちゃめちゃにされてしまってよいものでしょうか。彼女は羊飼いを見上げました。すると、彼を疑ったり彼に従って行くのをやめることなど、どうしてもできないと、急に思えてきました。ほかのだれをも愛せなくても、彼を愛していることは、みじめにふるえる小さな胸の中で、よくわかっていました。彼がどんな無理難題を言っても彼女は拒むことはできないでしょう。

一瞬つらそうに彼を見てから言いました。「帰りたいかですって? 羊飼い様、どこへですか?  私にはこの広い世界にあなたしかいないのです。どんなにたいへんでも、どうか私がお従いできるよう助けてください。あなたをお慕いすると同時に、本当に信頼することもできるよう、どうぞ助けてください。」

羊飼いは、このことばを聞くや顔を上げ、勝ち誇ったように喜びの笑い声を高く上げました。それはこの小さな谷にこだまして、山全体が彼といっしょに笑っているように聞こえました。こだまは岩から岩へとはね返り、どんどん高く上がって行き、頂上へ届いたかと思うと、最後には細いかすかな響きとなって天国へと吸い込まれていくようでした。

こだまがすっかり消えると、彼の声が優しく聞こえてきました。「愛する者よ、おまえのすべては美しく、おまえは何の汚れもない」(雅歌4章7節)。そしてつけ加えて言いました。「恐(おそれ)よ、恐れることはない。ただ信じなさい。決して辱められることはないと約束しよう。悲(かなしみ )苦(くるしみ)と共に行きなさい。今彼女たちを喜んで受け入れることができなくても、この先、ひとりではどうすることもできない困難に出会った時には、信じて彼女たちの手に任せなさい。そうすれば、私が望む方向へまちがいなく連れて行ってくれるだろう。」

恐(おそれ)はじっと立ちつくして、勝利と喜びに輝く羊飼いの顔を見上げていました。それは、救うことと、解放することに最上の喜びを見出す人の表情でした。ふと彼女の心に、羊飼いの弟子が書いたある賛美歌のことばが浮かび、小声で口づさんでみました。

憂き悩みも 何かは
主を愛するわが身に
ほむべき主よ 愛させたまえ
なれをば なれをば(※)

私の前にもこうして行った人たちがいるのねぇ。そして彼らは、あとになってそのことを歌うことさえできるようになったんだわ。私は弱く臆病だけれ ど、だからといってあの方が私には真実をつくしてくださらないなんてことはないと思うわ。あの方はとても強く、しかもお優しいのだから。それにあの方の最上の喜びは、従う者をすべての恐れから解放して、ついには高き所へ連れて行くことなのだもの。」恐(おそれ)はそう考えました。そして、それならこのふたりの案内人と早く出発しよう、それだけ早く栄光の高き所へ着けるのだと思いました。

彼女はベールのふたりを見つめ、今までになかった勇気にあふれて一歩前に進み出ました。「あなたがたとまいります。どうか道案内をお願いします。」それでもまだ、手を差しのべて握手するまでにはいきませんでした。

羊飼いは再び笑い声を上げてから、高らかに言いました。「私の平安をおまえに残していく。私の喜びがおまえに宿るように。私は必ず山頂の高き所へおまえを連れて行くこと、そして、決しておまえが辱められるようなことはないと固く誓ったことを覚えておきなさい。さあ、私は『そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに・・・・山々の上のかもしかや、若い鹿のように』なろう(雅歌2章17節)。」

そう言ったかと思うと、もう彼は道のわきの大きな岩の上に飛び移っていました。そこから次々に岩を駆け上がり、見る見る高みへ移り行き、あっという間に彼女たちの視界から消えていました。

彼の姿が全く見えなくなった時、恐(おそれ)とふたりのお伴は麓の道を登り始めました。足を引きずるようにして高き所目指して歩き出した恐(おそれ)は、ベールをかぶったふたりの差し出す手など見えないふりをして、できるだけ離れて歩いています。もしだれかが見たら、なんとも奇妙な光景だったにちがいありません。けれども、だれも見ている者はありませんでした。というのは、雌鹿の足を得るための過程は極秘であり、決して傍観者があってはならなかったからです。

(『恐れのない国へ』63〜66頁より引用。※この歌詞は聖歌263番「いのりまつる」の三番目の歌詞であります。作者や曲については下記サイトをご覧になるとよくわかります。http://www.cyberhymnal.org/htm/m/o/morelove.htm 以上5回にわたって同著から一部の作品である「4、高き所」を紹介しましたが、ここには全部で「高き所」を始めとする20の寓話が納められてあり、続編の『香り高き山々の秘密』にはさらに18篇があります。全篇を読み終える時に、恐(おそれ)の名前がいかにして栄恵(さかえ)と変えられるか、一方新しくされた栄恵(さかえ)の祈りを通して故郷屈辱谷に住む一人一人もまたいかにして主の救いにあずかるものと変えられるか、私たちひとりひとりに潜む罪の性質を明らかにしつつ、主の御名に頼ることのすばらしさを高らかにほめあげんとする著者の意図が伝わってきます。まさしくこの本は現代版『天路歴程』と言っていい作品でありましょう。)

2013年11月18日月曜日

高き所へ向かって(4)

『恐れのない国へ』挿絵より写し
ところが恐(おそれ)は、急にまた恐怖と不安に襲われて、周囲の歌声も耳に入らなくなりました。そしてふるえながら聞きました。「頂上まで行ったら、新しい名前を下さるんですね?」

「もちろんだよ。おまえの心の中で愛の花が開くばかりになったら、愛されて新しい名前も与えられる。」

恐(おそれ)は橋の上で立ち止まり、歩いて来た道を振り返ってみました。濃い緑の谷間はいかにも平和そうに見えましたが、それに比べ、眼前の山々は巨大な土塁のごとく、挑むように立ちはだかっています。遠くの震撼村を囲む木立を見つめていると胸がきゅっとして、羊飼いのしもべたちが楽しげに働く姿や、牧場に散らばる羊の群れ、住みなれた白い小さな家などが思い出されます。

そんなことを思い浮かべていると涙がにじみ、心の中ではあのとげがチクリと感じられるのでした。でも、すぐに彼女は羊飼いのほうに向き直り、心から言いました。「私はあなたを信頼して、あなたのおっしゃる通りいたします。」

見上げると、彼はこの上なく優しいほほえみをたたえながら、初めてこう言いました。「恐(おそれ)、おまえにはひとつの本当に美しいものがある。信頼の目だ。この世で最も美しいもののひとつが信頼だ。どんなに多くの美しい女王たちと比べても、おまえの目にある信頼のほうがずっと美しいと私は思う。」

まもなく橋を渡りきり、山の麓のゆるやかな勾配を行く道に出ました。大きな石がごろごろしています。恐(おそれ) は、道のわきの石に、ベールをかぶったふたりの女性が腰かけているのに気づきました。羊飼い恐(おそれ)がやって来るのを見ると、ふたりは立ち上がって、彼に向かい黙って頭を下げました。

羊飼いは、穏やかな調子で言いました。「おまえに話しておいた案内役だよ。今から、急で険しい困難な所を通り抜けるまでずっと、このふたりがおまえのお伴であり助け手となる。」

恐(おそれ)は不安な気持ちでふたりを見やりました。確かにふたりとも背が高く丈夫そうでしたが、なぜベールをかぶっているのでしょう。なぜ顔を隠しているのでしょうか。見れば見るほど不安になりました。ふたりは無言で、しかも強そうで、神秘的でした。なぜ何も言わないのでしょう。なぜ彼女にあいさつのひとこともしてくれないのでしょうか。

彼女は羊飼いに、小声で聞いてみました。 「おふたりは何ておっしゃるんですか? お名前を教えてください。なぜ私に声をかけてくださらないんですか? しゃべれないんですか?」

「もちろんしゃべれるよ。彼女たちは、おまえがまだ知らないことばで話すのだ。この山の方言とでも言おうか。でもいっしょに旅するうちに、少しずつ彼女たちの言うことがわかってくるだろう。ふたりは実に良い教師だ。彼女たちにまさる者はちょっといない。ふたりの名前だが、おまえのわかることばで教えよう。あとになれば、彼らのことばで何というのかわかるだろう。」彼は無言のふたりをそれぞれ指して、「こちらが悲(かなしみ)という。そしてあちらは双子の妹で苦(くるしみ)という。」

ひどい! 恐(おそれ)のほおは青ざめ、からだ中がふるえ出しました。気を失わんばかりにふらふらしてしまい、羊飼いに寄りかかりました。そして苦しそうに言いました。

「彼女たちとは行けません! いやです、いやです! ああ私の主、羊飼い様、どうしてこんなことをなさるのですか?  どうしてあの人たちとなどいっしょに旅ができましょう? 耐えられません。山道は険しく困難で、私ひとりでは登れないとおっしゃったではありませんか。それなのに。それなのになぜ悲(かなしみ)苦(くるしみ)などを私のつき添いになさるのですか? 喜(よろこび)平安を私といっしょに行かせることはできないのですか? そうすれば困難な道を行く時、私を強め励まし、助けとなってくれるではありませんか。ああ、あなたがこんなことを私になさるなんて!」彼女はどっと泣きくずれました。

(『恐れのない国へ』60〜62頁より引用。聖書にはイエス様の有名な次のおことばがあります。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ヨハネ13・7) 

2013年11月17日日曜日

高き所へ向かって(3)

秋菊 談笑する 声聞こゆ
次に恐(おそれ)に感じられたのは、鳥たちの歌声でした。チュンチュンさえずったり、元気よく鳴くその声にはさまざまな変化があるのですが、やはり一貫してあるコーラスが聞きとれます。

翼持つわたしたち
空を行くわたしたち
わたしたちの喜び
愛するということ
愛せるということ

「知らなかった・・・・この谷間がこんなに美しい所だったなんて。こんなに歌声があふれているなんて・・・・。」恐(おそれ)は感動していました。

羊飼いは朗らかに笑ってからこう言いました。「愛だけが、すべての造られた物のうちに植えつけられている音楽や美や喜びを本当の意味で理解することができるのだよ。二日前、おまえの心の中に愛の種を植えつけたね。おまえが前には気づかなかったことが聞こえたり見えたりし始めているのは、そのせいだ。

愛がおまえの中で育っていくにつれて、前には思ってもみなかったようなことを理解するようになる。未知のことばがわかるようになり、愛の特別のことばも話せるようになる。しかしその前にまず、愛の基本レッスンを学び、雌鹿の足を持つようにならなければならない。高き所への旅でその両方とも学ぶことになる。さあ、川へやって来た。向こう岸は山々へ続くすそ野だよ。そこではふたりのお伴がおまえを待っている。」

こんなに早く川まで来てしまって、もう山々に近づいているのが、恐(おそれ)には不思議でもあり、感激でもありました。羊飼いの手に支えられ、その力に助けられ、彼女は疲れも弱さも感じずにやって来ました。ここからも、ほかの人と行かせずに彼自身がずっとつき添ってくれればよいのですが。

彼女はそう思うと言ってみました。「これからもあなたが連れて行ってくださるわけにはいかないのですか? あなたがいっしょにいてくだされば私は力強いし、あなたこそが私を高き所へお連れくださる唯一の方ですもの。」

彼はこの上もない思いやりをもって彼女を見ながら、静かに答えました。「恐(おそれ)、私は何でもおまえの望むようにしてあげることができる。高き所までずっとおまえを抱きかかえて行くこともできる。しかしもしそうするなら、おまえは決して雌鹿の足を持つことはできないし、私の友となって共に歩み行くこともできない。たとえ長い困難な旅でも、おまえのために選んでおいた案内役といっしょに登って行くなら、必ず雌鹿の足を持つことができるのだよ。本当だ。

そして私といっしょに山々を駆けめぐることができるようになる。登ったり降りたりを瞬間にしてやってのけるようになる。それに、もし今おまえを抱きかかえて高き所まで連れて行っても、おまえの心の中の愛の種は小さ過ぎて、愛の王国に住むことはできないだろう。王国の外の低い所にしかいられないだろう。しかもそこはまだ敵の手の届く所だ。

彼らの中には、山のそうした低い所までやって来る者もいる。おまえがこれから登って行く時、彼らに出会うだろう。だからこそ私はおまえのために、力強い最高の案内人を厳選したのだよ。でもよく覚えておきなさい。たとえ私の姿が見えない時にも、私はおまえのそばを片時も離れないし、助けを求めて叫べば、私はすぐに来る。目には見えないけれど、常におまえと共にいるのだよ。今出発しようとしているこの旅を通して、おまえは必ず雌鹿の足を持つようになる。これは私の、真実な約束だ。」

(『恐れのない国へ』56〜60頁より引用。聖書には次のような約束がある。「わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。」エゼキエル34・13〜15

2013年11月16日土曜日

高き所へ向かって(2)

『恐れのない国へ』挿絵写し
ちょうどこの歌を歌い終えた時、ふたりの歩んでいた小道が激しい流れと交差する所へ出ました。流れは、反対側で滝のようになって流れ落ちています。勢いよく歌いながら流れるその水音は、まるで笑い声のように谷全体に響いています。

すべりやすい石の所では、羊飼いが彼女をかかえてくれました。恐(おそれ)は言いました。

「流れる水が、いったい何を歌っているのかわかったらなあと思います。静かな夜、床についてから、庭の裏を流れる小川のせせらぎに耳を傾けることがあるんです。なんだかとても楽しそうな情熱的な音色で、素敵な意味を秘めているように聞こえます。水の流れる音というのは、大きくはっきりしていても、小さく低くても、いつでも同じ歌を歌っているような気がします。流れはいったい何を語っているんでしょう。海や海水の立てる音とは違うんです。でもやっぱりわからない。私たちには理解できないことばなんですね。羊飼い様、あなたにはおわかりなんでしょう、水が勢いよく流れて行く時、いったい何を歌っているのか。」

羊飼いはにっこりほほえみました。ふたりがその勢いよく流れる小川のふちにたたずむと、一段と大きな力強い水音になりました。まるでふたりが話を中断して耳を澄ませるのを待っていたかのようです。恐(おそれ)羊飼いのそばに立っていると、耳と理解力が急に敏感に働き出すように感じました。そして少しずつ、水のことばがわかるような気がしてきました。水のことばで書き表すことなどもちろん無理ですが、できるかぎり、ここに訳してみました。でも、なかなかうまくいきません。水の歌を音符で表すことならできるかもしれませんが、ことばというものは全く性質の異なるものですから。

       水の歌

行こうよ行こう 低きへ行こう
毎日いっそう 低きへ行こう
最も低きへ きそって行こう
きそって行くのは 何たる喜び

われらが慕うのは 楽しきおきて
低きへ下るは われらの幸い
心はせき立つ 心は躍る
まだまだ低きへ 下って行こう

招きの呼び声 夜昼聞こえる
われらを呼んでる 行こうと呼んでる
駆け降り行こう 流れて行こう
高きを降りて 谷間へ下ろう

呼び声聞こえる お応えしよう
最も低きへ 下って行こう
心はせき立つ 心は痛む
もいちど高きへ 登り行くために

恐(おそれ)は、しばらくの間じっと耳を傾けて聞き入りました。さまざまな違った音色を混じえて、このように繰り返し歌われているようでしたが、恐(おそれ)には不可解でした。「何だかわからないわ。『まだまだ低きへ下って行こう』なんて、水は楽しげに歌っているようですけれど、あなたは私を最も高き所へ連れて行こうとなさっています。どういうことですか?」

「高き所は、この世の最も低い所への旅の出発点なのだよ。雌鹿の足で山々を駆け回り丘を飛び歩くことができるようになれば、私のように喜んでみずからを捨てて、高い所から下って行くことができるようになる。そして再び高い山々へ登れるわけだ。鷲よりも素早く登って行ける。自分を全く捨て去る力は、愛の高嶺にだけ存在するのだから。」

このことは神秘過ぎて、よくわかりませんでしたが、とにかく彼女の耳は敏感になっていて、小道を横切って流れるせせらぎが、繰り返し歌うのをすっかり聞きとることができました。野の花々もまた同じように歌っているようです。色彩のことばで歌っているのですが、やはり水のことばのように、知的にではなく心で理解されるのでした。幾千ものさまざまな違った音符が重なり合っていて、それがひとつのコーラスをなしているようでした。

与え 与え 与えること
何と甘美なことでしょう
これがわたしたちの人生です

(『恐れのない国へ』52〜57頁より引用。今朝、旧約聖書のエゼキエル書33章34章、新約聖書ヘブル書13章を読んでいて共通することが書いてあることに気づいた。それは私たちの見張り人である羊飼いと私たちとの関係についてである。その聖書は次のように語っている。「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。――神である主の御告げ。――」エゼキエル34・31。「恐」がどのようにして高きところへ向かうのか、その出発点の描写を明日も続けたい。)

2013年11月15日金曜日

高き所へ向かって(1)

吾亦紅(ワレモコウ) 高峰高原 2009.8.3
すばらしい一日の始まりです。谷はまだ眠っているかのように静かに横たわっています。聞こえるのは、軽やかな小川のせせらぎと、陽気な鳥のさえずりだけです。草の露がキラキラし、野の花は宝石のように色鮮やかです。中でも、紫、ピンク、真紅と色とりどりのアネモネの美しさは格別です。野原一面に散らばって、いばらの間にそのかわいい顔をのぞかせています。羊飼い恐(おそれ)は薄紫の小さな花がかたまって咲いている所を、いくつか通り過ぎました。ひとつひとつは小さいけれど、すき間なくびっしりと咲いていて、どんな宮殿のじゅうたんも及ばないぜいたくさです。

 羊飼いは、腰をかがめて優しく花にさわり恐(おそれ)に言いました。「自分を低くしなさい。そうすれば、足の下には愛の花の敷物が広げられているのがわかるだろう。」

 恐(おそれ)は真剣なまなざしで言いました。「野の花のことでよく不思議に思うことがあるんです。地上のほとんどの花は人に見られることもなく、やぎや牛に踏まれてだめになってしまうだけだというのに、ちゃんと咲いています。どんなにかわいらしく、美しくても、それを与える相手もいないし、それを鑑賞してくれる人さえいません。」

 その時羊飼いは、とても美しい表情を見せて静かにこう語りました。「私の父と私の造った物は、何でも決してむだになることはないのだよ。小さな野の花もすばらしいことを教えてくれる。見てくれる人、ほめてくれる人がいなくても、優しく、一心に、喜んで自分自身を差し出している。たとえ愛してもらえなくても、愛することは本当に幸せだと謳歌しているのだよ。

 恐(おそれ)、多くの人々には理解されない偉大な真理を教えよう。人間の魂の最も美しい面や、すばらしい霊的勝利や成果の数々というものは、だれにも気づかれず、はっきりとは認められないものなのだよ。真の愛に対する心の応答と、自己愛の克服のひとつひとつが、愛の木に新しい花をつけるのだ。

 世間には知られない静かで平凡な、隠れたような人生が、実は愛の花とその実の完成する本当の庭なのだよ。その庭は、愛の王ご自身が歩まれ、その友と喜び合う歓喜の場だ。目に見えるはっきりとした勝利を得、多くの人に愛され尊敬された私のしもべが何人かいるが、彼らの最高の勝利というものは、実はいつも野の花のように人に知られないものだった。恐、今、この谷にいる間にこのことを学びなさい。山の険しい所へ行った時にはきっと慰めになるだろうからね。

 ほら、鳥がうれしそうに歌っている。私たちもいっしょに歌おう。花々を見ていると心に浮かぶ歌があるね。」

 ふたりは、羊飼いの本にある古い歌を歌いながら、川に向かって谷を降りて行きました。

われはシャロンのばら
野のアネモネ
いばらの中にゆりのあるごとく
わが愛する者は われにあり

雑木林にりんごの木あり
わが愛する者は近くあり
われその陰に座す
その実は わが喜びなり

われを宮へ携え行き
宴の間に入れたまえり
大いなること分かたんため
最も小さきわれと

われを助け慰めたまえ
われ 恥により痛みわずらう
彼のともにはふさわしからず
その名を受けるにふさわしからず

娘らよ われは請う
木々の間のかもしかよ
ことさら起こすなかれ
わが愛する眠れる者を
愛のおのずから起こる時までは (雅歌2・1〜5、7)

(『恐れのない国へ』ハンナ・ハーナード著津久井正美訳いのちのことば社1988年刊行49〜52頁より引用。この文章はという名を持つ少女が、どのようにして親族の恐怖家を逃れ、羊飼いとともに屈辱谷から「全き愛は恐れを締め出す」1ヨハネ4・18高き所へ旅したかを物語る全文244頁よりなる寓意物語の抜粋です。著者ハーナードは最晩年その信仰は変節したようであります※。それがどのような理由によるのか私にはわかりませんし、残念に思いますが、この本ともう一冊の『香り高き山々の秘密』は良書だと思います。※Despite this awesome witness, later in her life Hannah showed the ever-lurking danger of trusting inner voices. She veered away from sound doctrine, embracing universalism (denying God's wrath), pantheism (God is everything) reincarnation and many new age ideas.http://www.christianity.com/church/church-history/timeline/1901-2000/miserable-hannah-r-hurnard-was-converted-11630738.html) 

2013年11月13日水曜日

お題目であってはならない「兄弟愛」

主にある兄弟姉妹が織り成す歩みは決して個人のスタンドプレーでなされる歩みではない。それぞれが自発的に助け合ってなされる共同作業だ。ましてや家庭集会はその実践の場ではないだろうか。かつてウオッチマン・ニーがどこかで「集会は語る者だけが中心になるのでなく、聞く人の心が主に向いて、語る人から主のおことばを聞こうとしているかどうかにかかっている。そのようにして聞く人もまた語る人を助けているのだ。」という意味のことを言っていたことを思い出す。

今日の家庭集会は10時半から始まった。ところが私の頭には午後から始まるというイメージがいつの間にか刷り込まれてしまっていた。その上、いつもは8時ごろには清書し始める聖句書きが、他のどうしてもしなければならない用事にかまけて後になってしまっていた。9時半ごろだろうか、階下から家内が「何しているの、もう下では用意していてくださっているのに」と言われて、ハッとした。階下で用意をしてくださっているのはまもなく90歳になろうとするご老人である。申しわけない思いであわてて階下に降りて手伝う。この分で行くと、今日は看板聖句は無理だな、と心秘かに思いながら、作業した。

一段落したら10時過ぎた。さらに一人二人と人々が集まって来られる。いよいよもって看板聖句は駄目だと観念するが、手は自然と墨汁の準備と向かっていた。かくして筆運びは雑になってしまった。そのうちにあっという間にメッセンジャーの方や証しする方もお着きになり、集会は始まった。メッセージはヨハネの福音書13章34節〜35節からであった。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

「新しい戒め」は、イエス様が神様のたいせつな戒めである「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」をお題目として実行に移さない者のために「兄弟愛」としてお示しになったものだ。「兄弟愛(フィリオ)」は「神の愛(アガペ)」でも「人間的な愛(エロス)」でもなく、その中間に当たる。イエス様はなぜこの「兄弟愛」を「新しい戒め」としてお示しになったか考えて見たいと話し始められた。

そして、具体的な「兄弟愛」について、ルカ10・25〜37で示された隣人を愛する愛は、極めて「限定」的な人々、すなわち主の救いをいただいて御霊をいただいている人々に語られていると解き明かされた。それはお題目の「博愛の愛」でなく、具体的な「兄弟愛」なのだと聖書全体、特に主の愛された弟子ヨハネによりその福音書、手紙、黙示録を通して明らかにされているのではないかと噛んで含めるように語られた。

そのあと、別の方のお証をいただいた。お聞きするうちに、不思議な僥倖を思わされた。なぜならお二人が同年で、しかも証しする方が鬱で悩んでおられた時にともに祈ってくださり、助けてくださった方が今日メッセージされた方だと言われたからだ。お頼みした私は全く存じ上げてもいず、想像もしなかったことであった。主イエス様はいつも私たち人の思いを越えて案配されるお方であることを改めて思う。そう言えば、メッセージの中で

「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

というおことばも引用してくださっていた。こうして不思議な家庭集会は終わり、皆さん三々五々お交わりに入られた。私たち夫婦はその後、集会に出席されている方の奥様が最近ホームに移られたので、その方をお見舞いするため、集会を中座し、後はまだお残りになってお交わりを続けておられる方々におゆだねして、ご主人とともに一緒に行く方の車に乗せていただき家を出た。

ホームでのお交わりは、嚥下障害をお持ちで、中々思うようにお話しはされないが、何よりもきよらかな笑顔で答えてくださる奥様を中心に、ご主人をふくめて五人で心から賛美し祈る交わりとなった。皆さんと別れ、二時間ほどして二人して戻ることができたが、私たちは何とも言えない幸福感で満たされていた。果たせるかな、玄関に着き、鍵のかけられたドアを開け、家に入った途端、そこには全く綺麗に後片付けされ、掃除され、整然とした見違えるばかりの部屋があった。

 秋深し 兄弟愛 語りたる 集いのあとの 部屋のぬくもり

( 次回の家庭集会は12月4日(水)14:00からです。)

2013年11月10日日曜日

パゼット・ウィルクスの日本伝道日記から

Mount Asama in Eruption
1910年(明治43年)7月15日
 次の手紙を、私は今日受け取りました。ミスK・Wのことや、その帰国の事情について知らない人に、この美しい物語をよりよく理解してもらうために、説明を加える必要があると思います。この信仰の深い主のしもべは、イングランドの豊かな家庭に育ち、マスグレーブ・ブラウン師によってすばらしい信仰を持ち、バックストン師のもとで伝道に従事するため、日本に来て10年になります。彼女は主の教えをさらに美しく輝かせるような人柄でした。彼女ほど主イエスを信じることの深い者はほかにいないことを私は知っています。しかし青天の霹靂のように、思いもかけぬことが起こりました。医者は彼女の命があと6週間しかないことを宣告したのです。悪性のガンです。彼女の場合にもガンはその残酷さを少しも緩めることはなかったのです。

 この手紙は、死の宣告を受けた直後に、彼女が信仰に導いた人の一人に宛てて書いたものです。その透徹した文章を通じて、この世で最も崇高なもの—残酷な死に対する圧倒的な勝利—が宝石のように輝いています。死後の今でも、彼女はまだ語り続けています。

「お見舞いの電報と、優しい慰めのお手紙をいただきお礼申し上げます。あなたの言われるとおり、祝福の輪がますます広がっていくことを神がお許しになるように祈ります。『もし死ねば、豊かな実を結びます』(ヨハネ12・24)。私は喜んで小さい石になります。あなたが手紙に書かれたこのみことばは、何と美しい神のみこころでしょう。私はもう天国の階段を昇りかけています。まもなく神のお姿を見ることができると考えるだけでも非常な光栄です。天国への道をあなたが進んで行かれるのを妨げるものは、全部捨ててしまわれるように私は心からお願いします。

 それによってあなたの命が終わる時、あなたはきっと大きな喜びを受けることになります。もう一つ、罪の中で最も恐ろしい罪である、神を信じない罪を犯さないようにしてください。いつもイエスをじっと見つめてください。ペテロはイエスを見つめている間だけ、水の上を歩くことができたことをあなたは知っておられます。ペテロはイエスから目を離した途端に沈み始めました。道が険しいため、あなたが勇気を失った時は、イエスのことを思い出してください。心が疲れた時は、イエスは私たちよりももっともっと耐え忍ばれたことを思い出してください。ヘブル書13章1〜6節を、あなたへ贈り物といたします。

 まだ書きたいことは多いのですが、もうお別れしなければなりません。私がこの上なく愛した人々と別れを告げなければならないことは私にとっていちばん悲しいことです。しかし私はいつも喜びと平和とに満たされています。私が死ねば皆さんは驚かれることでしょうが、これはすべて神のご慈愛です。私はどんな場合も神をたたえます。たとえ悪魔があなたに全世界を与えても、またどんなりっぱな贈り物や高い地位を与えても、天国を失わないようにしてください。神はあなたを祝福し、あなたを守り、あなたを慰め、あなたを助けます。神はあなたが必要とするすべてです。温かいクリスチャンの愛と、ローマ書の『どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように』(15・13)というみことばを贈ります。そして、あなたに『永遠の腕が下に』(申命33・27)という保証を合わせて贈ります。終わりに、私は憩いと平和と喜びとに満たされていることをお伝えします。あなたと私とは、神の永遠の愛のきずなによって結ばれています。
                        M・K・W 」

”これからいつまでも、主のみ手の中に眠る者は幸いです。そうです。この人たちはこの世の労苦から解き放されて憩い、その良きわざは、いつまでもこの人たちのものです、と聖霊は言います。”

私たちと同じ罪人の一人が、自由を与えられるのは、
悲しむべきことでしょうか。
いいえ、親しい友よ、それは違います。
私たちは喜んであなたを、
地上の苦しみの多い教会から、
神の統べ治める天上の教会へ送ります。
あなたは見事に死に打ち勝ったのです。
あなたの頭には、命と愛の冠が飾られています。

(同書28〜31頁より引用。訳者は安部赳夫氏で、いのちのことば社から1978年に出版されている。英文では自由に以下サイトから閲覧できる。https://archive.org/stream/missionaryjoys00wilkuoft#page/n5/mode/2up 冒頭の写真はそのサイトから拝借させていただいたが、ウィルクス氏が日本滞在中に経験した浅間噴火の様子を撮影したものである。本国イギリスに日本人の救いのために祈って欲しいと要請するために、特に印象的なこの写真を用いたのではないだろうか。)

2013年11月9日土曜日

「赦罪」のことばに、我感謝す!

琵琶湖  2013.11.3
下記の文章はパゼット・ウィルクスの『贖罪の動力』第6章「血による赦罪」からの引用である。同書はほぼ百年前に出版され、大江邦治氏によって訳されたものである。同氏は詩篇32篇の以下のみことばを引用し、英明かつ信仰深きダビデが犯した殺人と姦淫の罪にも関わらず主なる神様から自らが経験した三つの赦し、すなわちそむきの罪の赦し、罪が覆われていることから来る赦し、そして最後に自らの罪が完全に主なる神様から忘れられていることを歌っていると指摘して次のように述べている(http://sacellum-chimistae.org/)。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32・1〜2)

赦罪! 実に幸いなる優しき語よ! 我ら急いで、頭を垂れ、信じ、驚き、礼拝しよう。しかして我らの愛のないこと、聖からぬこと、キリストに似ないこと、 すべてみな神に告げ、みな御耳に聞こえ上げ、いまひとたび主の最も貴き御血を敢えて信ぜよ。しかしてかく信ずるにあたり、我らの心中に何らの恐れも疑いもなからしめよ。断乎、極端まで信ずることを決心せよ。しかして言い難き喜びをもって喜ぶまで信じ続けよ。ただ、あなたの罪の告白が充分に、自由に、正直に、赤裸々にて、何ら自ら義とする精神なきものなることを確かにせよ。

     われは迷い出で道を失いぬ
     負い目は積もりて払うよしなく
     罪は言い解くすべもなし
     ただこのままを主に告げまつる

   かくて、我らは詩篇作者と共に『その愆をゆるされその罪をおほはれしものは福ひなり不義をヱホバに負せられざるものはさいはひなり』と言うであろう。しかして我らはこれに付け加えて言おう。何らの赦罪も要せぬと想像する者、赦罪なる語をただ徒な無意味な語と想像する者はわざわいなるかな。しかり、三度も重ねて言おう、わざわいなるかなと。かかる人はまだ人生の最上の喜びを決して経験せぬ。もしかかる人が平和を保つとするならば、それは赦罪の真の平和、すなわちインマヌエルの御血管より流れる御血を信仰をもって見上げる時に確信せしめられる、赦罪の事実より来る真の平和でなく、罪が忘れられ、無視せられたと想像する虚偽の平和のほかでない。

2013年11月8日金曜日

朝顔ももう来年ですね

ヘブンリーブルー
私の家は路地を挟んで二軒先の線路沿いに二本の小道が通っている。手前の道路と線路際の用水路にはフタが施され通行可能である。手前には金網の腰高程度のフェンスがあり、線路際には柵があるが、線路沿いに歩けばほぼ隣の駅まで行けるから、皆さん愛用されており、通行する人も多い。何を隠そう、以前一度だけだけれど、お天気ニュース(NHK)で、御馴染みの方と、自転車ですれ違ったこともある。そんな線路沿いには付近の住民の方が柵内やフェンスを利用して花を植えていらっしゃたりして、通り行く人々の眼を結構楽しませている。

拙宅に一番近い線路際の住宅寄りの道路にも、もう何年か前からか、家内がほぼ全長2、30メートルになろうとする線路沿いのフェンスを利用して朝顔の種を蒔いては育てて楽しんできた。水やりが中々大変で、夏の暑い時期に雨が降らない時など、遠出しようものなら、そのことを一番気にして外出するのは彼女だ。たくさんの住民の方がいるが、家内一人でせっせと水やりに勤しんでは、開花を楽しんでいる。私も一度くらいは水やりを手伝ったりするが、今年は全然手伝わなかった記憶がある。天候不順な今年はいつの間にか夏が過ぎ去り、秋になっていたからである。

そんな後ろめたさもあり、「種を集めるのを手伝って」と言われたので、今日はめずらしく一緒に精を出した。フェンス10スパンほどには朝顔の蔦が絡まっており、まだまだ現役の朝顔もいるなかで、枯れ枝になってしまった朝顔の実をもぎとっては種を取り出す作業だ。実には決まって種が4個だろうか、しっかり詰まっている。もぎとりながら、こうしてしっかり子孫を残し、枯れていくのだと感心する。

おびただしい種を取っていると、通りすがりの方が「私も取っていいですか」と寄って来られる。「どうぞ、どうぞ」とお勧めする。犬の散歩でいつも通る人たちも、全く見ず知らずの方だが、「きれいでしたね」とていねいに挨拶しながら通りすがりに声をかけて下さる。種を取り、絡まっている蔦をはがし、根っこを抜き、きれいに元通りにするのには、小二時間ほど、二人してかかった。久しぶりの野良仕事(?)である。たくさんの方々が行き来されるが、すべて皆さん「朝顔の存在」に感謝しておられることが何となく伝わってきて嬉しい。

大した土いじりではないが、花の持つ縁がこうして普段行き来のないお互い同士を結びつけてくれる。表題のことばはやはり普段は話すことのない男性が自転車で通りすがりにかけてくださったことばだ。「年々歳々花相似て、年々歳々人同じからず」とは学校教育の現場で陽春を迎えるたびに感じたことだが、朝顔が種を残して消えて行く、その「挽歌」を聞く思いがしてちょっぴり寂しかった。すっかり作業を終えて家に入るともうあたりはすっかり暗くなっていた。思わず何時だと時計を覗くと正五時だった。「秋の日は釣瓶(つるべ)落としの如し」とは、若い世代には馴染みのない常套句が浮かぶ。

それでも手にはしっかりと子孫を残した証である黒い特徴ある朝顔の種がたくさん残されて充実感を覚えた。そう言えば、昨晩、パゼット・ウィルクス氏のほぼ100年前の『信仰の秘訣』という本を国会図書館の近代デジタルライブラリーから引き出したが、その中に次のような文章があったのを思い出した。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/906908

由来種子には生命があり、この生命が種子の中に驚くべき潜勢力として静かに伏在しておる。土と種子とはその本質において同一の元素であって互いに適合しているゆえ、種子が土の中に埋められ時にその中にある潜勢力たる生命が動揺し始め、鼓動し活動する。信仰もあたかもその如く、一度聖霊によりて霊魂の中に植えつけられれば直ちに活動し始め、鼓動し出し、奇しき力を表わして静かに働く。かくしてわれらの一切の願い、愛情、感情、思想、想像など、今まで自己中心のために神に対して無感覚となり、死にし如き睡眠状態にありしものが、それより覚醒し、あわれむべき罪深き人類に対する神の愛の光線の中に萌芽発育するのである。

文章の表題は「信仰は種子なり」と題して以下のみことばが引用されていた。

「からし種ほどの信仰」(マタイ17・20)

駄作一句 「朝顔の 黒き種子に 宿りたる 潜勢力 イエスのいのち」

2013年11月2日土曜日

永遠のいのち(下)

あるインドで働いた宣教師の夢を紹介します。この女宣教師は次のように見た夢について書かれました。

青草の生えている牧場に座っていました。足もとには果てしのない深い広い穴が大きく口を開けていました。私は下を見下ろしましたが、その穴の底は見ることができなかったのです。そこには雲のような黒いものが、また荒れ狂う竜巻のようなものだけが見えたのです。また死んだ人を包んだ布に似たよう大きなうつろ、測り知れない深い穴が見えました。私はこの穴を見たとき目がくらんで、うしろに思わず飛び退きました。長い列をつくって青草の上をあちらこちらを歩いている人々がいました。その人たちはみんなその穴に向かって歩いて行きました。そこに小さな子供を腕に抱いてもう一人の子供を連れていた母を見ました。その三人は穴の淵に向かって近づいているではありませんか。私はその母がめくらだということがわかりました。母親はまた一歩前に進もうとしましたが、足は穴のところを踏んだのです。子供たちと一緒に落ち込んでしまいました。落ちる時の叫び声は何という声だったでしょう。いろいろなところからたくさんの人々がやって来ました。みんなめくらでした。完全に目くらでした。みなが穴に向かって歩いて行きました。彼らは突然落ち込んで、恐ろしい叫び声をあげました。また他の者は黙ったまま深みに足を踏み入れ声もなく落ち込んで行きました。

ここまで述べましたのが、その宣教師の夢なんです。前に言いましたように主なる神の目から見た人間は二つの種類に分けられます。それは精神的に死んでいる者と精神的に生きている者の二つです。この二つの種類の区別はどこにあるなのでしょうか。

精神的に死んでいる人々は自分が死んでいるということを知らないのであり、精神的に生きている人々は自分が「永遠のいのち」を持っていることを知っているのであります。そこに違いがあります。私たちのまわりに多くの人々は精神的に死んでいる、その人々は自分たちがめくらであり、穴、すなわち地獄に向かって歩いていることをもちろん知りません。今生きている人々は、みな永遠の地獄で、すなわち主なる神から遠ざかって永遠の死の中に生きるか、または、主なる神の家、すなわち栄光と「永遠のいのち」に生きるかのどちらかです。人間はこの世に生きていますが、その短い年月の間に、その人間の精神が、またその肉体に宿っている間に、「永遠の死」かまたは「永遠のいのち」が決定されるのです。

もしかすると、今日もまだ救われていない、「永遠のいのち」を持っていない方がおられるかもしれない。その方々は心の中でどうしたら「永遠のいのち」を持つことができるのでしょうか。「永遠のいのち」にいたることができるかと、思案していることでしょう。ただひとりの生きておられる主なる神だけがその道を指し示そうとしておられます。神のみことばである聖書は、主なる神はもうすでに与えられたと言っています。私たちは救いを買うことも、働いて儲けることもできません。救いは自由な贈り物であり、この救いは贈り物として受け取らなければならない。そうでなければ、救いを自分のものとすることはできません。ロマ書6章の最後の節ですけども、6章23節。二つのことば、やっぱり、「死」と「いのち」ということばが出てきます。274頁です。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

もう一回読みます。ヨハネ伝10章28節ですけども、イエス様のすばらしい呼びかけ、また約束です。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

このみことばは何とはっきりしていることでしょう。何と力強いことでしょう。「永遠のいのち」は贈り物です。贈り物であるから、働きや人間の手柄によっては自分のものにすることはできません。絶対にできません。主なる神は「永遠のいのち」を与えられるお方です。この「永遠のいのち」はもちろん物ではない、イエス様です。だから、ヨハネと言う弟子は次のように書いたのであります。ヨハネ第一の手紙5章の11節から13節、431頁になります。お読み致します。

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

今まで一つの点について考えて参りましたが、すなわち聖書の中にふくまれているもっともたいせつな真理、すなわち「永遠のいのち」についてでした。

今から、主なる神の道、すなわちイエス様と一緒になることについて、ちょっとだけ考えて終わりたいと思います。「永遠のいのち」は私たちとイエス様の間の問題です。すなわち「永遠のいのち」とはイエス様との一致です。聖書によると「永遠のいのち」は主イエス様のうちにあると、はっきり言っています。ですから、もし私たちが「永遠のいのち」を持ちたいのならば、イエス様がわれわれの心に入らなければならない。イエス様ご自身がいのちそのものです。もし私たちはイエス様を受け入れようとしなければ、私たちは何にも持っていないし、けどイエス様を受け入れることによって私たちは満たされ、結局すべてを持つ者となります。イエス様は祈りの中で言いました。ヨハネ伝17章の3節

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と、あります。 イエス様は当時の聖書学者たちにちょっと厳しい言葉を言わざるを得なかったのです。ヨハネ伝の5章の39節

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

しかし、どうしたら、イエス様は、いのちそのものであられるイエス様は、私たちの心に入ることができるのでしょうか。ただ生まれることによってのみ、それができるのです。ですから、ヨハネ伝3章3節に書かれています。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 

生まれることなしにいのちはありません。普通の体のいのちはこの世に生まれることによって得られます。と、同じように、霊的ないのちも、「永遠のいのち」も、そのようにして生まれます。「だれでも新しく生まれなければならない」とある通りです。「永遠のいのち」であられるイエス様はわれわれの心に入って来なければならないのであり、イエス様が入ると私たちはいのち、「永遠のいのち」を持つのです。

パウロは「キリストは私のうちに生きている」と言うことができたのです。だから、彼は幸せでした。だから、誤解されても迫害されても憎まれても、彼はこのイエス様を宣べ伝えざるを得なかったのです。主なる神の与えようとされたのは、一つの教えじゃなくて、いのちであると聖書ははっきり言ったのです。まことの救いは、死んで冷たい形だけの信仰じゃなくて、決まった形式でも儀式でもありません。立派な本でもないし、たくさんの戒めでもありません。まことの救いは人の心に住む神のいのちです。すなわち、イエス様ご自身です。このいのちは生きていて、実際にある真の個人的な経験です。「主なる神のいのち」は人間の心を通って流れ出るのであり、人間は主なる神のものとなっているわけです。

まことの救いはいのちそのものです。イエス様はそれを教えるために来られました。イエス様はご自分のいのちを与えるために死なれたのです。そのいのち、「永遠のいのち」とは彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることですとありました。もう一ヵ所読んで終わります。ヨハネ伝1章12節です。

この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イエス様を受け入れることはしたがってたいせつです。ですから、私たちは誰にも言うべきです。どうか、この良き音ずれを信じ、イエス様のために自分の心のとびらを開く、イエス様を心に入れて下さい。イエス様はもちろん入ることを待っておられます。われわれの心に入ることを願っておられます。 黙示録の3章20節を読んで終わります。これは主イエス様の呼びかけの一つです

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

ともに食事をすることとは、結局親しい交わりを持つことです。神が私たちに「永遠のいのち」を与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。確かに「今は恵みの時、今は救いの日」です。自分をイエス様に明け渡し、あとで後悔するようになる人間は世界中どこへ行っても一人もいません。

(次回の家庭集会は11月13日10時半からです。)

2013年11月1日金曜日

永遠のいのち(中)

第二番目の理由として、今話したように「永遠のいのち」は主イエス様がこの新しいいのちを与えるために、この世に来なければならなかったのです。イエス様の証とは次のようなものでした。ヨハネ伝10章の10節

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

「永遠のいのち」を与えるために、イエス様は天から来られました。イエス様は人間が「永遠のいのち」を持つために、死ぬことのないために、すべての人間のために犠牲になり、代わりに死なれたのです。もしイエス様が来られなかったらどうでしょう。恐ろしい死を来たらす死を取り去って下さらなかったら、どうでしょう。「永遠のいのち」を罪人に下さらなかったら、すべての人間は「死」と名づけられる恐ろしい状態に永遠に留まらなければならなかったでしょう。

人間の種類は、ただ二つでしょう。人間は魂と体が生きていますから、生きているように見えます。けど、主なる神が人間を眺めた場合、人間をただ二つの種類、すなわち生きている者と死んでいる者と二つに分けています。私たちはこの瞬間にこの二つの種類のうちのどちらかに属しています。主なる神から見れば、私たちは生きているか死んでいるかのどちらかです。私たちはたとえば道を歩いている人を見て、この人は確かに生きているともちろん誰でも思います。私たちはそれを見て、その人の体が生きていることを考えるだけなのです。その人は肉体的ないのちを持っていますけど、その人の精神は死んでいるかも知れない。もし死んでいるなら、また生まれ変わっていなければ、主なる神の目から見るとその人は死んでいると(言っていいんです)。

また、ある事務所で熱心に働いている商人を見てみましょう。私たちはこの人は確かに生きていると言います。けど、私たちはただその人の魂のいのちが働いていることだけを考えています。すなわちその商人は考えること、感ずること、欲することができます。だから生きているとわれわれは判断します。けども、主なる神の判断は全く違います。主なる神に出会っていない人間、主との交わりを持たない人間は死んでいると主は言われます。われわれは限りあるいのちについて話しますが、主なる神は「永遠のいのち」について話されます。

また、今度イエス様を信じていて死んだ人の葬式に参加します。そしてその人の屍(しかばね)を見ます。その時、私たちはこの人は死んでいると思うかも知れない。私たちはその人の肉体の死を考えているから(です)。その人はもはや考えることもできないし、動くこともできません。けど、主なる神は「その人は生きている」と言っています。だから聖書の中で、「死んでも生きる」ということばとは本当にすばらしいことばです。主なる神の言われることがもちろん今わかります。なくなった信者の精神は生きているのです。「永遠のいのち」を受け、生まれ変わっていたのです。ですから、たとえ肉体は死んだとしても実際は生きている。なぜなら、その人は罪や死によって犯されることのないいのちを持っていたのです。そのいのちこそイエス様にあるいのちなのです。

こないだ一人の兄弟が召されまして、まだ比較的に若かったのです、70歳。高知のT・M兄弟なのですけど、その五、六週間前にやっぱり葬儀のために高知に行ったことがあります。けど葬儀のために頼まれたから行ったのですけど、私の気持ちは葬儀のためにだけに別に(行かなくってもいいのじゃないか、でも)。このM男、もう一回会いたいと思ったのです。末期のがんのために痛くって痛くってしようがなかった。会ったのは良かった。なぜなら全部主の御手から受け取ったからです。私はどうしてそんなに痛みを経験しなくちゃいけないのと一言葉も言わなかった。イエス様は全部知っている。イエス様は最善のことしか与えられない。ですから、彼の葬儀もほんとうに、葬儀よりもひとつの喜びの集いでした。遺された奥様、R子姉妹の証もほんとうに良かった。葬儀に出たいろいろな人々はやっぱり変わったようです。ほんとうに真剣になったのです。こういうふうに死ぬことができなければ、人生は無駄じゃないかと思うようになりました。

「永遠のいのち」を持つことこそがたいせつです。どうしてでしょうか。三番目の答えは「永遠のいのち」は人間の永遠の運命を決定するから、聖書の中のもっともたいせつな真理です。聖書の中でもっともたいせつな、たいせつと言うよりももっとも一番知られている箇所は、皆さんご存知です。ヨハネ伝3章 16節。15節から読みましょう。

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 

と。「永遠のいのち」を持っている者は決して滅びません。反対に言えば、「永遠のいのち」を持っていなければ人間は滅びなければならないのです。けども、滅びるということはいったい何を意味しているのでしょうか。私はそれを知りません。けども、滅びるとはいのちの反対であり、またそれは非常に恐ろしいことだということだけは知っています。主なる神は永遠のいのちをいらないと言う人間のさばきを表わすために、このことばを使われたのです。ヨハネ伝3章36節

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

と、あります。一方にはいのち、他方には神の怒りがあるのです。主なる神の怒りとはいったい何でしょうか。私は知らないけど、ここに書いてあります。また私たちはこのことばを嘘だということができません。もし、私たちが「永遠のいのち」を受けたくなければ、主なる神の怒りを受けるのです。もう一ヵ所読みます。今度は同じくヨハネ伝の5章、5章の24節

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

このみことばは二つの面、二つの道、すなわち「いのち」と「滅亡」をみることができるのです。私たちが「永遠のいのち」を受け取りますと死に打ち勝ったことになります。死とは何でしょう。滅亡とは何でしょう。主なる神がそれをご存知です。私たちはそれを知ろうとは思いません。自分が「永遠のいのち」に向かって進んでいるのだということがわかればそれで十分です。「永遠のいのち」を持っていないことは、死、滅亡を意味しているのです。もう一ヵ所読みます。今度10章ですね。ヨハネ伝10章の28節。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

イエス様はこういうふうに約束してくださいました。すなわちいのちの贈り物を拒めば大変です。滅亡するだけです。人間はどちら(か)に決めなければならない。自分の将来を決めます。人間は自分の運命を決定する権利を主から与えられています。ですから、いつ死んでも「永遠のいのち」を持っている、行き先は決まっている、と確信できる人は幸せです。この確信がなければほんとうの意味で前向きに生活することができません。

(この日、私は昨日お話した未亡人の方に依頼されてご主人の召される二日前の様子を記録し、みことばを添えた小冊子を集会の始まる前15部ばかり作成した。そしてそのあとこのメッセージをいただいたのである。何とタイムリーな学びであったことであろうか。ここには死といのちの違いが聖書を通じて存分に語られているからである。 )