2014年2月21日金曜日

あなたの産業は奈辺にありやと古の聖徒問う

小林儀八郎さんが残された手紙60余通を拝見させていただいたのは、もうかれこれ6、7年前になろうか。その数多の書簡を一読、小林さんの純粋なる主イエス様への思いに粛然とせざるを得なかったのを思い出す。今、その一通一通を一冊の本にしようとご遺族の方と、読み返しつつある。以下は儀八郎さん(当時30歳)が勤務地上海から、お産のために日本に一週間ほど前に里帰りした新妻正子さんにあてた、昭和16年(1941年)10月12日 日付の手紙である。改めてその真情に触れ得た思いがしたので再びご紹介する。


本日は夕食を両隣と三人で(ホンキュウ)の支那料理にした。こんなに簡単に食えるなら正子にも食わせて置けばよかったと後悔している。マーチャンが居なくなるとあれもこれも言う通りにしてやればよかったと思い出す。
一緒に居る時も善さは判るが別れて見るといろいろのことが思いまわされて一入有難く感ずる。「賢き婦を得るは如何に難しきかな。その価は真珠よりも尊し。」マーチャンこそ私の宝であるを知る。

レビ人等がその産業をエホバ御自身としたる如く我等の財は主イエス御自身でなければならぬ。悪人の亡ぶるを悦び給わぬ主は(エゼキエル三三・一一)我が如く御旨に背く者を帰らしめんが為に十字架の道を知らしめ給いしのみならず、かくも美わしき(外形に非ず、人の本質たる心を指すなり)妻を、友として賜いたるなるべしと思えば勿体なき冷汗の背を湿す思あり。

薔薇の花の模様のついた日本茶の茶碗を一度に二ヶ割ってしまった。窓ガラス一枚こわした。三上さん御主人が帰られて梨を頂いた。林チャンのお宅から柿が届いたので分け前を貰った。綿製品もいよいよ送れなくなった。その前に少しでも皆さんにお分かち出来たことを感謝します。

菊薫る秋が来た。心も身もひき締めたい。新しき生命のために祈ろう。身体も、能力も、吾々の思う如くではなく与え給う者の聖旨による。只願う信仰の与えられんことを。私には何物も善きものはない。

只御恩寵により若き日に覚えしめられた造り主のみが私の生命であり、祝福であり、宝であった。苦しかった日、楽しかった日、今の幸なる身の上。凡てが彼によりて感謝である。「男児であれ、女児であれ、此の子と共に主在せ。」親となる者の与え得る祝福の唯一つにして最大なるものが之であると思う。 
 
十月十二日                       儀八郎より

懐かしきマーチャンと  私共の子供へ

言うまでもなく、赤字で示したことばは旧約聖書箴言31・10である。なお、儀八郎氏も正子さんも、ともに藤本正高さんの講筵につらなる信仰者であった。藤本正高著作集にはこのお二人について記している箇所が二三ヵ所あるが、そのうちの一ヵ所を参考のために以下に記す(著作集第5巻の81頁より引用)。

昭和15年(1940年)9月23日(月)
晴 秋晴れ。休日を利用して岩井君、田中正子さんと登山。五日市から渓谷を歩く。渓流の畔りで飯を炊き、農家から買ってきた野菜を煮て食事をする。なかなかの御馳走である。それより坂路を登る。やはり山はよい。陣場山の見えるところまで来た。 一昨年の秋、雨の日にその山に登ったことを思い出す。その時は今日の三人の他に上海にいる小林君、福岡に帰った梅田さんがいた。時間の経過は我等の境遇を変える。離合集散は偶然であろうか。或いは必然であろうか。今日ともにいる者も、来年は所を異にするかも知れない。しかし過去を追憶するということは、我等人間にのみ与えられている能力ではないだろうか。過去を追憶する能力のあることは、現在をも過去として追憶する未来のあることを示し、又我等の過去の責任を問われる審判のあることを意味するのではなかろうか。時の流れは厳粛である。一日一日を永遠の今日として、天国に連なる一日として送らねばならないことを痛感する。

0 件のコメント:

コメントを投稿