2014年3月7日金曜日

リビングストンの生涯(1)

1857年の末ケンブリッジを訪ねた時、ここでなした講演ほど、非常なる興味と重大なる結果をもたらしたものはなかった。彼がケンブリッジに着いてセント・ジョン教会のウイリアム・モンク牧師の客となったのは12月3日であった。翌朝、評議員会館において、大学の卒業生、在校生および町やその近傍から来た多くの来訪よりなる大いなる聴衆に講演した。副総長が司会して彼を紹介した。リビングストン博士の講演は、アフリカ大陸と、その民族習慣宗教などを述べ、あわせて彼の旅行の主な出来事を語ったのであった。そして特に力説したのは彼の大目的であるところの、彼の開いたこの大陸に商業とキリスト教とを伝播せねばならぬということであった。彼は講演の最後の部分において、アフリカ伝道のため熱心に訴えた。

「伝道者として立つ人は、教育あり、自立心あり、進取の気性をもち、しかもまた熱心で敬虔なる人でなければならない。私はかくのごとき人々が、この栄誉ある目的をもたれることを願ってやまない。教育は救い主の知識を愚昧なる人々に知らしめるために、上より与えられるものである。もし諸君がかかる義務をなす喜びを知り、また同時に伝道者がつねに感じねばならない、かかる尊い事業のために選ばれた主の聖なる召の感謝をもつならば、諸君は躊躇することなくこの目的に進むべきである。

私のことについて言うも、私はかかる仕事に神より任ぜられたことを、欣(よろこ)ばしいと思わなかったことは一時もない。人々は私が私の長い生涯をアフリカにおいて犠牲にしたと言うが、それは犠牲と言い得るだろうか。私はただ、到底払い得ぬ神からの大負債のごく一部を返却したに過ぎない。健全なる活動、善をなす意識、心の平和、光栄ある後生涯への輝ける希望の中に、祝福された酬いを与えられるるものを犠牲と言い得るだろうか(引用者註: Is that a sacrifice which brings its own bless reward in healthful activity, the consciousness of doing good, peace of mind, and a bright hope of a glorious destiny hereafter? )。かかる見解の中にある言葉と思想を捨てよう。それは決して犠牲ではないのである。それはむしろ特権である(Away with the word in such a view, and with such a thought!  It is emphatically no sacrifice. Say rather it is a privilege. )。

伝道者の生涯の恵みと便益の前に幾度か心労、病疾、苦難、危険がわれらを躊躇逡巡せしめ、また深く失望の底に落とすことがある。しかしそれはしばらくである。かかる苦難は後に与えられるる栄光に比ぶべくもない。私は決して犠牲をなさない。主が高き御座より下りて、われらのために彼自身を与え給うた大いなる犠牲を思うとき、どうしてかかることばをわれらの口より出し得ようか。

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

私は諸君の注意がアフリカに向けらるることを望む。数年ならずして私は今開放せる国に死するであろう。その国を再び閉づるなかれ。私はアフリカに帰りて交易とキリスト教伝道のために道を開かんとする。諸君は私の始めた事業を進行せらるるや。私はその事業を諸君に遺す者である。」

(『リビングストンの生涯』畔上賢造・藤本正高共訳向山堂書房160〜162頁より引用。同書は昭和9年に訳され抄訳である。それ以来W.G.ブレーキーの書いたこの本を完訳した本は残念ながら日本にはない。そういう意味でわれわれ日本人がリビングストンを知るには貴重な書物である。訳者の一人藤本氏は前回のブログでご紹介した小林儀八郎氏が師事した方であり、この当時藤本氏は30歳そこそこで九州から上京し独立伝道に踏み出されたばかり、生活の保障もなく、長女を9ヵ月で亡くし大変な苦労ある生活の中でこの本を翻訳されている。恐らく「リビングストンの生涯」は共訳者である畔上・藤本のふたりの独立伝道者を慰め、鼓舞したものではなかっただろうか。なお、原文は以下のサイトで読むことができる。http://www.gutenberg.org/files/13262/13262-h/13262-h.htm )

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